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ザ・戊辰研マガジン

2020年04月号 vol.30

素晴らしい古刹の宝雲山 大龍寺と新島八重顕彰会

2020年04月15日 07:38 by tetsuo-kanome
2020年04月15日 07:38 by tetsuo-kanome

 2020年3月19日、お彼岸で母のお墓詣りのため、93歳になる父親と共に久しぶりに会津若松市を訪問しました。私と父は、お墓詣り後、会津若松市内の「宝雲山 大龍寺」を訪問しました。「新島八重顕彰会」の幹事長の岩澤信千代さんに「宝雲山 大龍寺」をご案内頂きました。

 「宝雲山 大龍寺」は、武家社会の礼儀作法を伝える小笠原流の祖・小笠原長時により天保年間、創建されました。その後、寛永二十(一六四三)年に会津藩の祖の保科正之公が会津に入り、「宝雲山 大龍寺」と現在の寺号に改められております。「宝雲山 大龍寺」は、戊辰戦争にも焼かれることなく、過客の如き時の流れを、 ぽかりと留めて、三七〇年もの長きに亘り、慶びの山、「慶山」の地にあって、会津の豊かな自然を、廻り廻らせ、お寺が、人が、動物が、 飾らず、てらわず、自然体。本堂の裏には、元禄の庭匠であります目黒浄定の四季の移ろいを鮮やかに映す遠州流の庭園があります。秋には、京都の高雄、嵐山から移植しました「大龍寺のかえで」が、裏庭の小世界を赤々と染めます。本堂前には、「戊辰戦争殉難殉節供養の碑」があり、ほかにも、和算家・暦学者の安藤有益(ゆうえき)をはじめとして、数多くの会津藩の名士や士族が、この境内で眠っております。山本覚馬、山本八重の山本家の菩提寺でもあり、山本家の墓もあります。また会津藩大砲隊長の林権助安定(はやしごんすけやすただ)の墓もあります。林権助は山本覚馬の大砲の師匠でありました。

【宝雲山 大龍寺】

 

【京都嵐山から移植されたかえで】

 

【戊辰戦争殉難殉節供養の碑】

 

【武家社会の礼儀作法を伝える小笠原流の祖・小笠原長時のお墓】

 

【会津藩大砲隊長の林権助安定のお墓】

 

 

【山本覚馬、山本八重の山本家のお墓】

【新島八重の歌碑 ※大龍寺の奥様の書】

 『たらちねの 御墓のあとを とふことも 今日をかきりと なくほととぎす』 八重子

 昭和六年(1931年)新島八重は点在していた山本家の墓を一か所に集め、この墓所を整備しました。八重が亡くなったのは墓所整備の翌年昭和七年(1932年)で享年八十七歳。

 【小説「天地明察」にも登場する和算家・暦学者 安藤有益の墓】

  和算家・暦学者 安藤有益は、会津藩初代藩主の保科正之公のもとで活躍した算学者で、磐梯山、飯盛山の高さを測量するとともに、暦法に精通し、安井算哲(渋川春海)の改暦事業の相談役にもなりました。

【大龍寺の本堂にあります『幽霊の足跡?』】

【大龍寺に保管されている照姫の籠】

  本堂には、鶴ヶ城籠城戦で婦女子を指揮しました「照姫」の駕籠が、大切に保存されております。装飾は控えめ、漆塗りの竹造り。最後の会津藩主・松平容保公の側室・佐久の方は、この慎ましい「女乗物」に乗って、「大龍寺」に入り、容大公を産んだといわれております。また、離れの「資料館」では、幕末の三舟や佐久間象山、そして、三条実美など、 歴史上の偉人たちの書画を、綺羅星の如く展示されております。一番驚いたのは、3代将軍徳川家光公の位牌が本堂に祀られてました。戊辰戦争時、日光から会津に運ばれたそうです。

【元禄の庭匠の目黒浄定作の庭園「月心庭」】

 

 大龍寺の月心庭は、会津若松市にあります名庭園「御薬園」の試作庭園として、元禄の園匠、目黒浄定氏を招き作庭した風情ある庭です。

【会津の庭園番付:大龍寺の月心庭は「年寄」・欄勝亭は「行司役」※大龍寺も欄勝亭も庭師の目黒浄定作】

【大龍寺の奥様と大龍寺を訪問された際の綾瀬はるかさん】

 

【新島八重顕彰会企画の新島八重遺墨展】

 「新島八重遺墨展」では、八重さんのダジャレが書かれている手紙や、初公開の資料も数多く展示されるそうです。八重さんファンは必見です。岩澤さんのご好意で「招待券」を頂戴しました。

 

【新島八重顕彰会】

 

 『新島八重顕彰会』のホームページ

  https://yaenk.sakura.ne.jp/

 『新島八重顕彰会』は、激動の時代を生きた山本覚馬・八重兄妹の生き様は、未だに我々に感動を与えてくれます。逆境に生きた旧会津藩士の追い求めたものは何か?二人の兄妹がたどった人生を研究し顕彰することは、私たちの考え方に多くの啓示を与え続けてくれることでしょう。 そこで、新島八重の命日である6月14日に、二人の兄妹の顕彰祭を執り行うこと及び会員相互の親睦を図ることを主目的として『新島八重顕彰会』を発足することになったそうです。この『新島八重顕彰会』の幹事長であります岩澤信千代様は、会津生まれの会津育ちで現在も会津若松市在住で、戊辰150年記念誌「薫蕕を選びて」を発刊されました。この記念誌が縁で私は岩澤様と知り合いとなりました。このような縁で今回、岩澤様に大龍寺をご案内頂きました。引き続き、『新島八重顕彰会』と我が「戊辰戦争研究会」が会津を愛する者同士として連携させていただければ幸いです。

 「大龍寺」は歴史があるお寺で大変見応えがありました。有意義な時間を過ごさせていただき、岩澤様と大龍寺の奥様に心から感謝申し上げます。なお、大龍寺の奥様と私の父は、お互いに会津で生まれ育ったのが隣町同士ですっかり打ち解けさせていただいておりました。やっぱり会津人同士はすぐに通じ合えますネ。なお、私と父が大龍寺を訪問した写真を「新島八重顕彰会」のホームページに掲載して頂きました。

  https://yaenk.sakura.ne.jp/archives/news/2136

 

【おまけ・・・私の中でダントツで会津ナンバー1の猪苗代町「ラ・ネージュ」の手打ち蕎麦とソースヒレカツ丼】

http://okitamaco.blog.fc2.com/blog-entry-1293.html

 猪苗代町の「ラ・ネージュ」は、猪苗代町役場の向かい側にあります。戊辰戦争研究会の皆様が昨年行きました会津若松市の「十文字屋」のソースカツ丼も有名ですが、「ラ・ネージュ」の「ソースヒレカツ丼」は絶品です。私の93歳の父もペロリと食べるくらいの美味しさです。ヒレカツの素晴らしさと甘辛のソースが絶妙です。手打ち蕎麦も、会津在住の何人もの方々から会津一の美味しさとお墨付きです。実際、蕎麦の風味とコシ、そばのタレ共に完璧な美味しさです。私たち親子が行った際には、わざわざ南相馬市から「ラ・ネージュ」の手打ち蕎麦を食べに来た方もおりました。皆様も猪苗代町来訪時にぜひ「ラ・ネージュ」の手打ち蕎麦とソースヒレカツ丼を召し上がってくなんしょない。 

【猪苗代町の道の駅には残雪がありました。3/18に10センチの積雪があったそうです】 

【記者 鹿目 哲生】

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