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2020年04月号 vol.30

新選組隊士、大和宇陀に来る! その2

2020年03月30日 19:20 by tama1
2020年03月30日 19:20 by tama1

さて、本題の新選組隊士の二人とは誰?何故来たの?  その2

上段文には

慶応二年 新選組伊東甲子太郎他来町に付上町より届書

 乍恐以書附御届奉申上候

一 新選組伊東甲子太郎殿と申方外士壱人松山上町江罷越候趣御先触、先月晦日夜月行司江至来仕、則当月朔日四ツ時頃当町江御趣ニ相成私方江宿請可仕様被申聞候処、折節私義此節病気ニ罷在段々御断申上候得共無御聞入、達而宿請可仕様被申聞候ニ付、無拠宿請仕候処、当町内長助・勇吉本分違隔之一条是迄取?ニ立入候もの并町内組頭共被召寄委細御聞糺被成、私共ニ御逗留御座候間、乍恐此段不取敢御届奉申上候、以上

慶応二年十二月 和州宇陀郡松山上町 細川治助? 組頭徳兵衛?

角倉様 御役所

 要約してみるに、慶応2年12月1日、前日の先触れ通り、新選組伊東甲子太郎という方、他もう一人の士とともに四ツ時(午前10時過ぎ)に当町に来られ、私方に宿を求められました。当方病気の為、お断りしたものの、お聞き入れ無く止む無く逗留してもらうことになりました。 要件は、当町内長助と勇吉の本分違隔の一件とのことを年寄細川治助及び組頭の徳兵衛の連名にて御役所角倉様に宛てた届書となっています。

また、下段には、 

慶応二年 新選組伊東甲子太郎・山崎烝出立に付上町より届書(天理図書館蔵文書)

乍恐以書附御届奉申上候

 

一 当月朔日新選組伊東甲子太郎様・山崎烝様と申方当町へ御越被成、年寄細川治助宅二旅宿有之、長助・勇吉本末違隔一条ニ付長助御呼出し被成候処、折節長介(助)義前日より俵本(田原本)村親類へ罷越居候趣ニ付、右申上候得者夜シニ而も呼ニ可遣旨被申聞候間、早速飛脚相立候処、右方より直様京都御役所江罷出候由ニ而、右方罷居不申候間、飛脚之もの其足ニ而長助之跡ヲ追ひ上京仕候趣、俵本村より別便を以申来候間右申上候、然ニ夫迄長助召遣ひ伊七と申もの御呼出し被成、是迄之始末御申聞糺之上、伊七町内江預置様被申聞候処、其夜何方へ罷越候哉行衛(方)相分不申旨、其段翌日申上候得者、行衛相尋、且長助帰国仕候又在京候共、右長助・直介・召遣ひ伊七、川向町熊吉、若伊七行方相分り兼候ハ、伊七代多七と申もの、并ニ勇吉・同召遣ひ茂吉、其外付添役人当六日何方共無之只京都江可罷出様組頭徳兵衛江被申付置、二日八ツ時当町御出立ニ相成候間、乍恐此段御届奉申上候、以上  

慶応二年寅十二月 和州宇陀郡松山上町年寄細川治助 代倅和介

角(倉)御役所

ここでは、新選組伊東と山崎が、揉め事の当事者である長助を呼び出すも、前日より田原本の親類宅に行っており留守との事で、早速飛脚を以て迎えに行かせたところ、彼は田原本から直に京都御役所に向かったといい、飛脚の者、その足で長助を追って上京したと書かれています。 止む無く長助の召使伊七を呼び出し事情徴収し、さらに伊七に町内に留まるように命じるもその夜のうちに居なくなり行方知れずといいます。 翌二日、この報告を聞いた伊東、山崎の両名は大層怒ったでしょうね(私の勝手な推察です)長助が戻り次第、長助・直介・伊七、川向の熊吉、若し伊七が行方知れずなら伊七の代理の多七、そして勇吉・同召遣茂吉、その他付き添いの役人揃って六日に京都に出頭させよと組頭徳兵衛に命じて八ツ時(午後2時ぐらいか)に出立したとの報告届書となっています。 ※宇陀松山に新選組が揉め事の調停役として出張して来たという事実はこの史料のみであり、その前後の始末が分からない故、何点かの疑問が生ずるが何方かご教示いただければ有難いです。

 

疑問点

①奈良の天領地を管轄する奈良奉行所や五條代官所ではなく、なぜ京都なのか? これについては、江戸幕府が京都に設置した遠国奉行の一つ、「京都町奉行」の項を読んでみると納得がいきました。京都郡代が担当していた京都とその周辺(山城・丹波・近江・大和)の裁判及び天領に関する行政の権限について寛文8年(1668)に京都町奉行(東西)が担当することになり、当地宇陀に於いても安永元年(1772)宇陀郡油屋25人が京都町奉行より初めて公認されるという記事が見えます。

②それでは角倉様、御役所という宛先は?何故新選組が? 角倉といえば、京都の河川事業で偉業を成した角倉了以・素庵親子の豪商角倉家がすぐに頭に浮かびますが、どうも時代が合わないようだし、角倉家は幕末から維新まで「京角倉家」として存続されてはいますが、その影響力は如何なものだったのでしょうか?当時(1866,7年)の京都町奉行は東町奉行に大久保忠恕、西町奉行は遠山資尹とあり、奉行所の名称は江戸、大坂と異なり、「東御役所」「西御役所」と呼んでいたことから「御役所」という宛先は京都町奉行に違いないと推量されるのですが・・・幕府が滅びる1年前の慶応2年に、果たして公事裁判力があったのかどうか?そこで役所から会津公に願い出て新選組派遣という筋書きは飛躍が過ぎるであろうか?

③新選組に出張要請したのは誰なのか? 当事者の長助なのか?届書の中身から推察しても疑わしく、ましてや町の年寄細川治助や組頭徳兵衛なども依頼しておれば宿泊を断るわけがないだろうし、届出書にしても淡々と事実関係を述べているのみで、私には客観的なよそよしさを感じてならないのですが如何なものであろうか?知りたいものです。

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