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磐城平城に残る丹後沢伝説

2019年06月25日 18:33 by norippe

 磐城平城跡のすぐそば、いわき駅のすぐ裏に柳町という場所がある。30年程前になるが、私はその柳町に住んでいた事があり、そこは鷹匠町や番匠町や大工町と言った、いかにも城下町を思わせる町名が隣接している場所なのである。
 柳町の西側は磐城平城跡地、さらにその北側には丹後沢の濠がある。この丹後沢の濠は磐城平城の内堀の役目を果たしていた。池のまわりは鬱蒼と木々が生い茂り、日中でも薄暗い。こんな街中にあってなんとなく気味の悪い場所である。それには丹後沢にまつわる伝説というものが、その雰囲気を醸し出しているのかも知れない。


丹後沢公園


磐城平城跡近辺の地図

 慶長七年(1602年)、関ヶ原の戦いで西軍に付いた岩城氏が徳川家康によってこの磐城の地を追いやられ、代わりに鳥居忠政が磐城平十万石を治めることになった。鳥居忠政の父は、家康の右腕となって京都の伏見城で石田三成と戦って討ち死にした鳥居元忠。その父の元忠の死を称え、家康が元忠の息子鳥居忠政に十万石の領地を与えた。その領地がこの磐城の地であった。
 忠政は家康から「早く行って城を築くように」と命ぜられた。
 翌年の2月、忠政がいざ磐城の地へ来てみると、前の殿様がいたお城は大きく崩れはてて修理のしようがなかったのである。どこか別な所へ城を築こうということになり、そして今の物見ケ岡がよいと決めたのだが、その場所には飯野八幡宮が建っていたのだ。そこで飯野八幡宮を遷宮させ、その跡へ12年の歳月をかけて三階櫓の立派な城を築き上げたのだ。
 この磐城平城であるが、仙台の伊達政宗を牽制するための家康の策とした造られた城であったのだ。

 福島県の海に面した地域は山々に細かく挟まれていて谷間が多く、広々とした平野が少なく沼地が多い。磐城もその一つで、磐城平城の築城には苦労が多かった。
 城の西北にある後沢は、二の丸と三の丸の間を切り、四軒町の方へ水が流れているのだが、ここを堰止めれば大きな濠となって大変都合がよいだろうと考え、多くの人夫を集めて堰を造る工事が始まった。しかしこの工事は難を極めた。苦労して堰を築いても、沼地だけあって地面が緩く、ちょっと大雨が降るとすぐに決壊してしまうのだ。
 何度も堰を築いても決壊してしまうので、忠政は陰陽博士を呼んで占ってもらったところ、「ここは大きな亀が住んでいて、雨が降ると鎌田川へ通うからだ。いくら頑丈に造っても、たぶん駄目だろう」と答えたのだ。
 しかし忠政は、ここに堀を作ることにこだわった。大阪城のような頑丈な内堀を作りたかったのだ。早く工事を終わらせたいという思いが強くあった。

 そんな折、人柱を立ててはどうか?と進言する者が出てきた。
 忠政はしばらく考えたが、その話に乗ることを決めた。
 領内に回状が巡った。米寿を過ぎた老人はいないか、いたら忠政のところまでただちに連れて来いといったものだった。それぐらい歳を取っていれば、いなくなっても誰も困らないだろうと忠政は思った。 ほどなく条件にかなう老人がみつかった。菅波村の箱崎丹後という、90歳を過ぎた老人であった。急ぎ、役人に連れられて忠政の元へやってきた。

 忠政は丹後爺に、お前を堀の工事責任者にするので絶対に成功させるように命じたのである。これは忠政は遠回しに「人柱になれ!」と言っているのである。
 そして丹後爺は忠政の思いを感じ取り「人柱になるので、私が埋められた場所を丹後沢と名付けて末代まで名を残して欲しい」と願ったのである。
 丹後の素直さを忠政は大変嬉しく思ったのである。
 忠政は褒美はなにがいいか聞いた。
 これから死のうという人間に褒美もなにもあったものではないが、丹後は「息子たちは皆死に身寄りもないが、ただ一人の孫がいる。その孫の弥蔵の行く末だけが心配なので、弥蔵をぜひとも取り立ててくれ」と頼んだのである。忠政は快く了承したのだ。

 忠政は丹後爺を本当に気の毒に思い、すぐに酒の用意をさせ丹後に御盃を賜ったのだ。そして
  “埋木の花咲くことはあらねども 谷の下にはさぞやかなしむ”
 と歌をお詠んだ。
 そうすると丹後は
  “惜しむとも千年ながろう身を捨てて その名を残す丹後沢かな”
 と詠み返した。

 丹後は忠政に別れの挨拶をして谷底へ下りて行った。そして扇を開いて謡を唄いながら千秋楽の舞をまったのである。まだ舞が終わらないうちに大勢の人足は無情にも土を落とし丹後を埋めて行ったのである。
 丹後爺が埋められて以降、雨が降っても沢は決壊しなくなり、工事は成功を収めたのである。

 さて、丹後爺がこの世を去った後、丹後の孫である弥蔵に知行500石が与えられ、山目付に取り立てられた。しかし苛斂誅求で農民を苦しめたため、農民たちは鳥居家の山形転封(24万石)に伴い、山目付の弥蔵に報復しようとしたが、弥蔵は逃亡してしまった。
 そのため高久村の百姓は輩下の佐藤隼人(下高久清水地区居住)を襲い一家を火攻めにして殺してしまった。
 やがて襲撃参加者は鳥居藩の騎馬隊の追ってを受け、近隣の寺(薄磯修徳院、沼之内賢沼寺、山口光照寺、四倉薬王寺)に逃げ込んだ百姓は難を逃れたが、下高久の共同墓地(現地蔵院)に逃げ込んだ百人が捕えられ処刑された。この処刑地、埋葬地が高久小の旧土手で「百間土手」と呼ばれていた。この騒動が高久村騒動と言われている。
 鳥居家の山形移封後は、上総国佐貫から内藤政長が7万石で入封した。

 その後、内藤氏は元文一揆がもとで日向国(宮崎延岡)に転封、そのあとを継いだ井上正経は10年で藩主を終え、安藤家が磐城平藩の藩主を受け継いだのである。
 そして戊辰戦争が勃発して、磐城平城が落城、城の姿は消えたのである。

 丹後爺が地中に眠るこの場所は、丹後沢公園として遊歩道が設置されてはいるが、まわりの道路からは見る事の出来ない場所にあり、ひっそりとしたたたずまいの中にある。
 時々、公園の一角にある広場から子供たちの遊び声が聞こえて来る。


【これからの磐城平城】


JRいわき駅北側にある磐城平城跡地

 福島県いわき市は、同市平のJR常磐線いわき駅北西側の丘陵地帯にあった磐城平城本丸(櫓などで構成)の跡地に、都市公園を整備することになった。3階櫓は約4億円、8棟櫓は約2億円となる。この公園整備は、補助整備事業として国などから認定を受けた。櫓を含めた建設費は10億円を上回るものと見られる。
 同城跡敷地面積は1万3000平方メートルのうち一部地主と仮契約、同市議会に上程するのは、約8000平方メートル、1億8000万円となる。そのあとに約5000平方メートルを買収する。この用地取得費は、3分の1は国などの補助金、施設は2分の1となる。同市都市建設部の高木桂一部長は「櫓の建設費などは未定。公園は21年までに完成させたい」と語る。
 磐城平城の櫓復元で、JRいわき駅付近の同市平の商店街を含め、市街地活性化を図れば、経済的にもメリットはある。 清水敏男市長は「磐城平城の櫓復元で街の活性化を図れば商店街にも賑やかさを取り戻せる」と語っている。

(記者:関根)

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