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ザ・戊辰研マガジン

2019年06月号 vol.20

2019年6月号の表紙について

2019年06月05日 18:50 by norippe


猪苗代城(亀ヶ城)

今月の表紙は「猪苗代城」、別名を「亀ヶ城」といいいます。
二ノ郭には野口英世の像が建っています。
猪苗代といったら野口英世というのはわかるのですが、城山を上まで登って野口英世の銅像を見たとき、何故か違和感を覚えました。
お城に野口英世という組み合わせが私の頭の中には無かったのです。
野口英世が通った猪苗代尋常高等小学校は、この猪苗代城址のすぐそばにあったので、野口英世の子供の頃の遊び場はこの猪苗代城址だったのです。


大正時代の猪苗代城


野口英世の像

以下Wikipediaより

猪苗代城の築城については、奥州合戦によって会津を与えられた相模国の御家人佐原義連の孫・経連が鎌倉時代初期に築いたといわれているが、真偽は不明である。ただ、経連の子孫は代々猪苗代氏を名乗り、地頭として一帯を治めていたため、その過程において築城されたのは間違いないであろう。ちなみに会津盆地を治めていた蘆名氏も佐原義連の血統で、猪苗代氏とは同族である。猪苗代氏は本家・蘆名氏に対しては、反逆と従属を何度も繰り返し、最終的には、天正17年(1589年)の摺上原の戦いの直前に、当時の当主・猪苗代盛国が伊達政宗に内応し、蘆名氏を滅亡に追い込むこととなった。豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達氏が会津を離れると、盛国も猪苗代を離れ、約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉した。

その後、会津領主は蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成と続くが、猪苗代城は会津領の重要拠点として、江戸幕府の一国一城令発布の際もその例外として存続が認められ、それぞれの家中の有力家臣が城代として差し置かれていた。寛永20年(1643年)に保科正之が会津藩主となると、猪苗代城には城代が置かれ、また、正之の死後はその墓所(正之は城の北、土津神社に葬られた)の守護という重要な役目も担った。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際、母成峠の戦いで西軍(薩摩藩・長州藩など)が東軍(会津藩・新撰組など)を破って、会津領へ侵入すると、当時の城代・高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退し、建物は全て失われ、ここに猪苗代城の城としての役割は終わった。

戊辰戦争後、猪苗代城跡地は荒廃したままの状態だったが、明治38年(1905年)に町内の有志が日露戦争の戦勝記念として桜を植樹し、その後、公園として整備され、現在も春になると、花見でおおいに賑わっている。平成13年(2001年)に城跡は「猪苗代城跡 附鶴峰城跡」として福島県指定史跡に指定された。

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