ザ・戊辰研マガジン

Vol.6

興禅寺

2018年04月08日 11:26 by tange

 東京・白金の台地の上に、小さな寺がひっそりと在る。臨済宗妙心寺派の興禅寺である。この寺を訪れるためには、二つのやや急峻な坂道のいずれかを上がらなければならない。東からは蜀江(しょっこう)坂、西からは明治坂である。今、それぞれの坂の始まりに木柱が立ち、坂の名称と由来が表示されている。
 蜀江坂:この台地一帯が中国の紅葉の美しい蜀江にちなんで蜀江台と呼ばれていたので、この坂道の名称となった(港区)
 明治坂:相当古くからの坂道であるが、このように呼ばれるようになったのは、大正初期の頃からである(港区)

 
  蜀江坂(左レンガ塀は聖心女子学院)       明治坂 


 江戸は平坦な都市であったと一般に思われている。たしかに徳川家康は、この地に転封されると直ちに大規模な土木工事を起こし、台地を削りその土で湿地や浅瀬を埋め立て、平坦地を拡げていった。そしてさらに歴代の将軍がこれにならって都市改造をしたので、幕末、江戸は世界有数の都市になっていた。幕末に来日した写真家ベアトが愛宕山の山頂から撮影した江戸の風景写真が残されている。そこには、はるか先まで大名や旗本の屋敷、寺院などの甍が拡がり、高低差の無い全く平らな都市という印象の景色が写されている。
 しかし、違っていた。文政元年(1818年)、幕府によって江戸府内の範囲が定められ、「江戸府内図」として示された。それによると、江戸は平坦地に武蔵野台地の東端が食い込んだ地形の上に成立していたことが良く分かるのだ。地図上の御府内境界近くに、上野、駒込、小石川、小日向、中目黒、白金、大崎、品川御殿山など、今日でも高台の地名が読める。
 そして、その台地部と平坦部を結ぶため多くの坂道が生まれ、今に残された。

 慶応4年(1868年)2月13日、会津藩士・神保修理長輝の遺体は、三田の会津藩下屋敷から西へ進み、蜀江坂を上って運ばれ興禅寺に葬られた。神保修理は、同年1月3日に始まった鳥羽・伏見の戦いで幕府軍と会津軍が敗れ、さらに薩長軍へ朝廷より錦の御旗が下され戦場に掲げられたことを知り、将軍・徳川慶喜と藩主・松平容保に東帰と恭順を献言した。江戸に帰還後、そのことを朋輩から責められ、しかも偽りの主命によって自刃したのである。
 
 明治2年(1869年)5月18日、会津藩上席家老・萱野権兵衛長修(ながのぶ)の遺体は、麻布広尾の飯野(保科)藩別邸から、今は明治坂と呼ばれている急坂を上って興禅寺に運ばれた。前年の9月22日、会津藩は鶴ヶ城を開城し降伏した。萱野権兵衛は、鳥羽・伏見から会津まで朝廷に逆らい戦をしたという会津藩の罪を一身に受けて、保科家別邸で落命したのである。
 保科家では、萱野権兵衛の遺体の処理について、新政府にお伺いを立てている。『勝手にしかし迅速に』という返事を得て、処刑当日、近くの興禅寺に移した。保科家にとっては、大いに慌てての処置であったようだ。興禅寺では、藩大夫以上の葬儀に準じて、僧侶十余人が出座して供養したという。


    興禅寺(墓地出入口は左へ少し離れて在る)


 興禅寺の墓地の片隅に、同じような形をしたあまり大きくない墓石が二つ並んでいる。それぞれの正面に、萱野長修、神保長輝、と姓に諱(いみな)だけが刻まれている。
 私は、興禅寺を訪ね彼らの墓前で、少しのあいだ色々と考えを巡らしていた。そして、
ここに並んで二人の墓があるのは、全く偶然の積み重ねの結果ではないか、との結論に至った。
 第一に、二人の最期の様が違っていた。神保修理は、朋輩からの強い非難と追及のなか身を処した。一方、萱野権兵衛は、藩主から一藩士に至るまでの深謝と惜別のなか命を絶った。その時の二人に対する周囲の扱いが、全く違っていたということだ。
 第二に、最期の順が違っていた。死に臨んで尊敬する目上の人の墓近くに葬ってほしいと言い残すことは間々あるが、この場合、神保修理が先に死んでいるので当てはまらない。しかも萱野権兵衛は、神保修理の叔父である。叔父が先に死んだ甥のそばに眠ることを望んだとも思えない。
 第三に、萱野権兵衛の遺体の処置は飯野藩に任され、会津藩が関与していなかった。飯野藩は新政府からの命令に相当慌てふためいていたので、彼らが深い考えを持ってここに運んだとはとても思えない。


  左・萱野長修之墓、右・神保長輝墓(石燈籠や囲いは近年の献納


 会津の行く末を強く思うという一点において一致していた二人が、没後、江戸の都市構造がもたらした二つの坂を別々の時に別々の手で上がり、同じ興禅寺へ辿り着いた。結果として叔父と甥は、寄り添いあって、そこに眠っている―。
 泉下で、叔父は甥へ『おまえの東帰と恭順の献言は正しかった』と言い、甥は『叔父上の潔い行為が会津藩を救ったのです』などと話し合っているかもしれない。 (鈴木 晋)


(次回は、萱野権兵衛終焉の地、飯野藩広尾別邸です)












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