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ザ・戊辰研マガジン

Vol.6

コーヒーブレイク「種々の小さな話」

2018年04月03日 21:50 by kohkawa3
2018年04月03日 21:50 by kohkawa3

その四 警備員のつぶやき(1)「カツラの木の下で」

 職場のロビーから駅の階段が見える。この階段を降りたところに、小さな広場がある。そこに1本のカツラの木がある。幹の太さは20センチくらい、高さは5メートルほどであろう。春から秋、葉が茂るとコンクリートの中のオアシスのようである。カツラは公園などでよく見かける落葉樹で、葉は円に近いハート型で500円玉くらいの大きさである。
 整備されたタイル貼りの舗道の一角が、直径3メートルくらいくり抜かれ、このカツラの木が植えられている。木の回りにはベンチ代わりになる手すりが設置されており、待ち合わせ場所としても重宝されている。
 カツラは、春になれば頼りない枝から若芽が吹き出したなと思ううち、気がつけば枝も見えないほどに繁茂している。
 初夏には淡い緑の若葉が風に揺れ、ロビーにいながら、いつも5月の風を感じることができる。
 夏になれば葉の緑も濃さを増し、枝も張り、待ち合わせの人々に格好の日陰を提供している。
 数年前の夏、このカツラの木をながめながら、ひとつ俳句でも作ってやろうと頭をひねっていた。しかし、なかなか俳句が浮かばない。そんな時、朝日俳壇にこんな俳句が載った。うろ覚えで不正確だが以下のような句だった。
 「ハンサムな立木でひとり雨宿り」
 若い女性が投稿した俳句で、秀句として紹介されていた。あっ、これだと思った。それ以来、俳句をつくるのはあきらめた。
 夏が終わり台風の季節にも、カツラの木はしっかり耐える。エアコンの効いたロビーから眺めていると、幹全体がしなるように頭をたれながら強風に耐えている。台風一過の翌朝には枝が折れて落ちていることもあった。
 カツラの木は紅葉が早い。10月頃には黄色や薄い赤茶色に変化し、葉を落とし始める。朝の清掃時にはハート型の黄色い葉が目の前の舗道にも落ちている。時折、自動ドアのこちら側にも舞い込んでくる。雨の後の濡れ落ち葉は、路面に張り付いて掃除が大変だ。
 そして冬になり、葉を落とした枝は刈り込まれる。
 ところが、去年秋やっと色づいて、これから落ち葉の季節だなと思っていると、小型のクレーン車が入り、数時間のうちにカツラの木は坊主にされてしまった。葉のついている枝はすべて刈り込まれ、幹と太めの枝だけを残し、手足をもぎ取られたようだ。
 落ち葉がじゃまだという苦情が役所に寄せられたための処置ではないかと思う。
 ハンサムなカツラの木から、落ち葉がはらはら落ちる秋の風物詩はもう見られない。


その五 散骨

 兄が交通事故で死んだのは10年ほど前である。死ぬ前に、よく酒を飲みながら「俺が死んだら骨は大洗(茨城県)の海にまいてくれ」と言っていた。兄は早死した父と仲が悪く、同じ墓に入るのはまっぴらだと言っていた。
 事故の数ヶ月後、甥(兄の長男)の意向で、先祖の墓へ納骨することをやめ、大洗の近くの葬儀屋に依頼して、散骨を行うことになった。
 散骨の当日、兄弟など数人が集まり、業者の用意したクルーザーに乗り込んだ。
 その日は風があり波は高かったが、沖へでれば大丈夫ということだった。沖へ出ると、大きなうねりはあるものの、エンジンを切ってもそれほどの横揺れはなかった。
 クルーザーから岸を見ると、船体に太陽の絵が描かれたフェリー「さんふらわあ」が接岸していた。
 このフェリーで北海道に渡り、自転車で道内を走り回るのが、兄の数少ない楽しみの一つであった。名もない街の小さな食堂で、ウニどんぶりを食べた時の感動は何度も聞かされた。兄にとって大洗の海は、日常から非日常への玄関口であった。
 数分間のちょっとしたセレモニーのあと、水溶性の紙に平らに包まれ、手のひらに乗るような大きさに小分けされた骨を、いくつかずつ渡された。
 青黒く上下に大きくうねる海の中に骨の包みを投じると、ゆらゆらと揺れながら沈んでいった。途中、骨を包んでいる紙は海水に溶けて、砂粒のような骨は、底知れぬ闇の中に消えてゆくのだろう。海の深みに引きずり込まれそうな目眩を感じた。
 それでおしいまいである。個人の記憶の中にだけ残る。思い出したい人が思い出す。思い出して欲しくない人も思い出すのは仕方がない。
 骨は永遠の輪廻の中に帰っていく。墓石の下で骨壷に納まるよりも、よほど気が利いている。散骨がいいなと思った。でも、海は暗くて冷たそうで、ちょっと怖い。
 山がいい。子どもたちには「故郷のあの山に」と言ってある。やってくれるかどうかはわからない。桜の木の下でなくてもかまわない。桜の花びらがどこからともなく舞ってきて、藤の花がほろほろと落ちる。そばにタチツボスミレが咲くような、早春の日だまりのできるところ。そんなところがいい。


その六 閉所恐怖症

 自分が「閉所恐怖症」だと気づいたのは30年以上も前のことである。
 その頃、原因不明の偏頭痛に悩まされ、近所のクリニックの紹介で大学病院の脳神経外科を受診した。そこでCTスキャン検査を受けることになった。もちろん初めてのことである。
 装置のベンチに仰向けになり、頭上の狭いドームの中に移動する。頭がすっぽり入り、肩が入ろうかというあたりで息苦しくなり、動悸が激しくなり、手に持っているボタンを押してしまう。これを2度、3度繰り返した。
 仕切り直しをして、何とか無事終わることができたが、怖い思いだけが残っていて、CTスキャンにかかっている時の状況は覚えていない。
 その時は、脳に異常は見られず、医師からは「いわゆる頭痛」という診断を受けたが、自己診断は「閉所恐怖症」であった。
 最近、耳に異変が起こり、近所の耳鼻咽喉科を受診、総合病院を紹介され、MRI検査を受けることになった。
 MRI検査の前の問診に「閉所恐怖症ですか?」という質問があり、「はい」に丸をつけた。けっこう恐怖を感じる人がいるのだと分かって少し安心した。
 検査室に入ると、見覚えのある小さい暗いドームが口を開けている。不安をかかえながらベンチに仰向けになる。アゴと額を軽く固定され、顔の前を野球のキャッチャーマスクのようなものでガードされる。手には医師と連絡をとるためのスイッチを持たされる。
 数分の辛抱だ、何とか頑張ろうと思いながらも、念の為聞いてみた。
 「時間はどれくらいですか?」
 「20分もあれば終わります」
 「えっ!」
 これで観念してしまった。
 CTスキャンとMRIは同じようなものだと思っていたが、終わってから病院の説明書を見たら、MRIは20分~60分の時間がかかるということが書いてあった。長すぎる。
 医師は「寝ててもいいですから」と言うが、「寝てられるわけねーだろう」と思う。目をつむって機械の動きに身を委ねた。ベンチが動いているな、止まったな、というのは分かるが、目をつむっていると恐怖は感じない。目を開けたらアウトだと思い、目を開けたいという誘惑に抵抗して、じっと堪えた。
 ドームの中は絶えずガンガン、ゴロゴロ、ゴンゴン大きな音がしている。そのうち、ウトウトとするが、大きな音で目がさめるということを繰り返しているうちに終了した。ドームから出て初めて目を開けた。
 検査の結果、心配される病気は何もなく、ほっと胸をなでおろした。「閉所恐怖症」もいつの間にかなくなっていた。


その七 警備員のつぶやき(2)「中村さんは今日も行く」

 中村さんが職場に現れたのは3年ほど前である。
 身長160センチくらい、やせ型の男性であった。年齢は80歳前後、こざっぱりした身なりをしているが、どこか変であった。自動ドアの前に立った中村さんは、預金通帳を片手にお金をおろしたいという。
 私は銀行系の不動産会社などが入っているビルの警備員である。このビルは、コーポレートカラーやロゴなどが銀行と同じで、銀行の窓口と間違える人が多い。そうしたお客さんを窓口に案内するのが私の仕事である。
 いつもそうしているように、中村さんにも銀行の窓口を教えた。
 数日後、また中村さんが現れた。先日同様、預金通帳を持っている。お金をおろしたいという。窓口を教えると「あっ」と言って、私を思い出した風であった。
 その後も数週間に一度ほど現れては、同じ事を聞く。そして、こちらをじっと見つめて「はっ」として顔をゆがめる。何となく記憶に引っかかっているのだろう。
 事情は知らないが、1年近く中村さんが現れない時期があった。そして、ひさしぶりに現れた時も、通帳を片手にお金をおろすという。窓口を教えると、30分後に再び現れて、お金をおろしたいという。迷子になったようだ。どうしたものかと思ったが、もう一度窓口を教えた。
 ある日現れた中村さんは通帳を持っていなかった。通帳をなくしたという。私は窓口を教えることしかできないが、その日は午後3時を回っていて窓口は閉まっている。仕方なく、駅前の交番を教えると、トボトボと交番に向かって歩いて行った。
 中村さんにたびたび教えている銀行窓口は、私の職場から歩いて1分ほどの所にある。本来の建物が工事中のため仮店舗で分散して営業している。
 時々顔を出す銀行窓口勤務の警備員にこの事を話してみた。すると、
 「ああ、中村さん。」
 「あの人認知症で、しょっちゅう通帳なくしちゃ再発行してるんだよ。」
 「息子も娘も来るよ。でも、息子もちょっと変なんだよね。」
という。
 その時初めて中村さんの名前を知った。
 最近の中村さんは私の顔を見ても表情を変えない。窓口を教えると、何事もなかったかのようにトボトボと歩いていく。
 中村さんは以前の中村さんではなくなっていた。中村さんは過去と縁を切って、今の瞬間の中村さんを生きている。
 人間というのは、絶えず細胞が死に、同時に新たな細胞が生まれ、同じ人間でいることはないという。過去の自分と現在の自分が同じだと思うのは脳の錯覚らしい。
 預金通帳を握りしめ、中村さんは今日も行く。
   (大川 和良)

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