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ザ・戊辰研マガジン

Vol.6

天誅組の足跡を巡る

2018年04月02日 19:58 by tama1
2018年04月02日 19:58 by tama1

天誅組の足跡を辿るシリ-ズ 十津川編① 一泊二日のバスツア-「行程」 一日目 AM 9:00大和五條長屋門駐車場を出発 天辻本陣跡→野迫川村弁財天→昼食(夢の湯にて)→上野地本陣跡・谷瀬の吊り橋→ 国王神社→野崎主計墓所→梅田雲浜碑→風屋本陣跡・竹志田熊雄墓→中井庄五郎碑→ 道の駅十津川郷→十津川村歴史民俗資料館→深瀬繁理墓→十津川荘(17:30着)宿泊 大塔町天辻(てんつじ)本陣跡には★富貴辻(ふきつじ)の道標があります。

 天辻は江戸時代の末頃より天川(てんかわ)、富貴、橋本、五條、下市方面からの物 資の集散地として栄え、 峠付近は問屋、旅籠など一時は100戸を超すほどの賑わいをみせた所であったそうで す。 天誅組が本陣を構えたのはそういった交通の便や地形状、要塞の地として有利であっ たためと言われています。 道標には歌が詠まれており施主の南条治郎左衛門は弘化3年(1846)に五條代官所陣 屋にて勤務していた役人で武蔵坊南岳とは彼の号です。 この声は何国の華ぞほととぎす 天誅組はこの向こうの「鳩の首」方面からこの道を通り天辻にやって来たと言われて います。 道標板前にて説明を受ける参加者たち。 画像が入ります。

 

★天辻維新公園(五條市大塔町簾)

★天誅組本陣遺跡 文久3年8/21~9/14までの24日間本陣を置いています。

 その後、中山忠光らの本隊が 十津川へ向けて南下政策をとったり、 一時的に銀峯山へ移陣したが天誅組は常にこの天ノ川辻を拠点としていた。 石碑は昭和11年に大塔村保護会によって建立されたものです。

★義烈鶴屋治兵衛翁碑

 この地の豪農だった鶴屋治兵衛は本性を「鶴谷」屋号を「鶴屋」と称しています。 「天の川の水が逆さに流れても鶴屋の資産は滅びん」 とまで謳われたほどの豪家であったと言われたそうです。 ここで、本日愛知県刈谷市から川口副市長ご夫妻が、早朝5時に出発され、ここ天辻 本陣より合流されました。 お話では天誅組史跡探訪に来られたとの事。この後、十津川上野地本陣跡地までご一 緒することになりました。 天辻本陣跡から次の訪問地 ★野川の弁財天(野迫川村柞原)にやってまいりました。 財宝の神様。

 

弘法大師が建立したと伝えられ妙法院という寺と同じ敷地内にあり、神 仏混合ですね。 社殿前に文政七甲申十月日施主当国天ノ川辻鶴屋治兵衛と刻まれた燈篭が現在も残っ ています。鶴屋治兵衛の痕跡を残す唯一のものですね。 もう一対はこの地の三大金持ちの一人でOOという人の常夜灯も並んでいました。 新妙にお参りする参加者たち。いったい何をお祈りしたのでしょうニコニコ この後、昼食は「夢の湯銀河レストラン」で済ませ、バスはいよいよ十津川の入口 ★上野地本陣跡(十津川村上野地)にやってまいりました。 車窓から谷瀬の吊橋が見えています。 そう、ここが上野地です!

★天誅組上野地本陣跡碑

河内勢の離脱と追討軍の天ノ川辻包囲に本陣は天ノ川辻を撤退し、9月13日夕方、上 野地の東雲寺に着陣しました。 ここで十津川郷士を再度糾合し、山間の地で長期戦に持ち込む考えであったといいま す。 しかし、朝廷から十津川郷へ「天誅組からの離反・追討」の命令が出ていた。郷士側 との話し合いの結果、天誅組は解散を決断し、 9月15日朝、解散式が行われ16日夕方にはこの地を引き払って風屋に移る。 本陣と定めた東雲寺はこの碑のある場所ではなく、現在では特定できないとのようで す。

 さて、折角の谷瀬です!日本有数の長さを誇るつり橋を体験してみましょう。

上野地と向こう岸の谷瀬を結ぶ巨大なつり橋長さ297メートル高さ54メ-トル! びっくりそびえたつ山々に囲まれ、眼下には澄んだ十津川が流れるまさに絶景のロケ -ション! これが案外と揺れるものだから結構怖い!前回来た時には風もあって途中何度も前が 止まりやっとのことで渡ったことが思い出されました メンバ-の大半の人がトライしていました。初めての人もいましたが無事生還し、 ホッとした途中、随分揺れて怖かったのでは・・・ 家内は案外平気なようでスイスイと往復してましたね。びっくり 遠慮組の人達は橋の手前で記念写真をパチリカメラ、ここで刈谷からお越しの川口副 市長ご夫妻とお別れして一行は国王神社に向かいました。

★国王神社(十津川村川津) 長慶天皇(第98代)をお祀りした神社です。

 南北朝時代、南朝の長慶天皇が北朝勢に追い詰められ十津川の上流、天川村五色谷で 自害されています。 近習の者がそのご遺体を水葬にふしたところ数日後、御首が下流の河津の淵に流れ着 き毎夜水底より不思議な一条の光を発した。 郷民がその御首を川底から発見し、手厚く葬ったといいます。 さて、こちらの境内には天誅組で唯一の粛清にあい、天ノ川辻本陣にて殺害された二 人のうちの一人。林村庄屋・玉堀為之進が寄進した燈篭や辞世の歌碑が残されていま す。 為之進が寄贈した燈篭 辞世の歌碑 国の為仇なす心なきものを仇となりしは恨みなりける 吉村虎太郎らが募兵の為、十津川郷へ入り、約千人の郷士たちを天ノ川辻本陣に集め たがその中に 玉堀為之進とちょうど玉堀のもとに来ていた河内の上田主殿の二人が居た。 上田家は代々神戸藩士で河内鬼住村にあって長野代官を勤めた豪家で、主殿は16歳の とき江戸へ下り、 水戸藩邸にて藤田東湖に師事するなど頭が切れる尊攘派の志士であり、京都では公卿 西四辻大夫とも懇意であった。 二人は、念のため京都にお伺いをたてたうえでお供したいと申し出たために、既に朝 敵となっていた天誅組は、 問答無用とばかり二人を斬殺している。天誅組にとっては唯一の汚点といってもよい この事件ですが、 何とも気の毒なのはこの二人ではないでしょうか。尚、上田主殿の墓は河内長野市鬼 住にある 「延命寺」にあります。詳しくは→延命寺と上田主殿 に記載。 次に十津川村川津に入ります。

★野崎主計の墓に参りました。

 川津村の庄屋。若い頃病で13年もの間立つことも出来ずその間読書三昧の日々を送っ た結果、十津川一の物識りとなり 「川津のしりくさり」と呼ばれた。8/22天誅組の代表として募兵に来た吉村虎太郎と 会談し、十津川郷をあげて天誅組に 協力することを約束しています。しかし朝廷から「離反・追討」の命令がくると野崎 は天誅組に協力した全責任をとって川津の山中で自害しました。 有名な辞世が刻まれています。 討つ人も討たるる人も心せよ 同じ御国の御民なりせば 野崎主計の顕彰碑 そして向かい側には

★梅田雲浜先生顕彰碑が建っています。

 若狭の国小浜の出身で維新の代表的な志士。雲浜の主張は外国の打ち払い。京都御所 の警護を固めることにあった。そこで目をつけたのが十津川郷士であった。 代々皇室に対して忠勤を励んでおり質実剛健の気質を鼓舞訓練すれば危急の場合、朝 廷の護衛兵として役立つと考えた。 のち野崎主計・上平主税・深瀬繁理らと交流を図り、ロシアの使節プチャ-チンが大 坂湾に現れると、 十津川郷士は雲浜を首領としてロシア船への攘夷を行わんと大坂へ向かっている。雲 浜はその後安政の大獄の犠牲となっている。 本日、最後の訪問地は十津川村風屋です。

★竹志田熊雄墓

 竹志田熊雄は肥後国玉名郡(熊本県)住吉神社の神官で、文久2年の島津久光の上京 に合せた倒幕計画を聞いて脱藩しました。 五條代官所討入り直後に病に倒れ、以後本隊の後を駕篭に乗って付き従い、乾十郎の 妻亥生(いわお)の 看病を受けていたが遂にこの地で亡くなった。享年21。 十津川郷士前田雅樂が遺体を埋葬し墓を建立しています。これは明治22年の水害で流 され同34年4月、 村人によって風屋共同墓地に建て直され現在も風屋地区の人々とともにあります。 墓名には竹下という姓になっているのは? 単に村人たちが間違えたのだろうか? 近くには

★風屋本陣跡碑が建っています。

 ここ、風屋も上野地同様天誅組の運命を変えた場所でもある。天誅組は二度に亘りこ の地に本陣をおくことを余儀なくされています。 8/30~9/1高取戦で敗れた本隊が新宮脱出策をもって南下。しかし虎太郎率いる後続 隊は天ノ川辻に踏みとどまって戦い続けている。 9/13夕、本隊は天ノ川撤退し上野地に着陣。 9/16伴林光平・乾十郎が上野地から派遣され 風屋村福寿院で十津川郷士と会談したが郷士の離反止む無しとし、本隊も同日夜、風 屋に着陣。 本陣の場所は不明だが当時の風屋村はダムの底に沈んでいます。 この後、車窓から★中井庄五郎生誕地の碑 (野尻)→★陸軍大臣荒木貞夫終焉の地碑 (小原)→★十津川民俗歴史資料館を訪問後 何と言っても十津川の自慢は「かけながし温泉」でしょう。温泉温泉で一風呂浴びて ゆっくり一日の疲れを癒し、 大広間での宴会では美味しいお酒と料理に舌鼓み生ビール日本酒ウマー!! 一泊ツア-の醍醐味は、新たな出会いがあったり、旧交を温めたりなど話も弾み盛り 上がりますね! その様子を写真で残しておきましょう。 翌、二日目は十津川村重里(深瀬繁理墓碑)→十津川村込之上(剣豪中井亀治郎の 碑)→北山郷浦向(上平家) →下北山村寺垣内(正法寺)→白川林泉寺→伯母峰地蔵堂など天誅組足跡を廻りまし た。

 

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