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ザ・戊辰研マガジン

Vol.6

【連載】『次郎長と鉄舟から愛された男』 第6回

2018年04月01日 13:28 by norippe
2018年04月01日 13:28 by norippe

[山岡鉄舟との別れ、そして天田愚庵の誕生]

 1886年(明治19年)、内外新報社の幹事として大阪に行くことになった五郎は山岡の元へ暇乞いに行った。山岡は五郎に一通の紹介状を与え言ったのである。「そうか。大阪と京都は近い。私の禅の師匠である天龍寺の滴水禅師を訪ねるのがよかろう。お前は今まで両親や妹を十分に捜した。もう旅に出て捜すことはやめて、心の中に両親を求めるよう修行したらよいだろう。」大阪へ赴いた五郎はさっそく京都の滴水禅師を訪ねた。滴水は洛北の修学院林丘寺にいたのだ。五郎は新聞社が休みの前日、仕事帰りには大阪から京都に来ては縄手三条の小川亭に泊まり、朝早く滴水禅師のもとに参じていたのである。
 小川亭の女将はテイと言って、池田屋で新撰組に斬られた宮部鼎蔵や松田重助らの遺体を秘かに葬ったり、勤王の志士達をかくまったりした女将で、「勤王婆さん」と呼ばれた有名な女将だったのである。「出家するときは親代わりになってほしい」と五郎がいうので「ハイ、ハイ。」と聞き流していたが、ある日突然、五郎が本気で出家すると言いだしたので、テイは驚いて引き留めようとしたが、五郎の決心は変わらなかったのである。
 五郎が出家しようと思ったのには次のような訳があったのだ。五郎が勤める新聞社の友人が結核にかかってしまったのだ。親や妻子を抱えた友人は安い給料で一生懸命働いてはいたのだが、それでも生活は良くならず無理な生活がたたり、そして妻や子にも感染してしまったのである。五郎は医者を呼んでは懸命の看病をするのだが、家族5人は全員が次々と死んでいったのである。五郎はこの世の無常をいまさらながら身をもって感じ、仏門に入る決心を強く抱いたのである。
 明治20年4月8日、釈迦が誕生した日に五郎の出家が決まった。当日、身元保証人になった小川テイを連れ添って修学院の林丘寺に向かい、そして滴水禅師に剃髪をしてもらったのである。五郎は坊主になった自分の頭をなで、ポロリと涙を流すのであった。五郎はこの時から名前を「天田鉄眼」と称し、京都林丘寺に入って禅師に仕えたのである。34歳での出家だった。

 翌年の1888年の7月19日、五郎が師と仰いだ山岡鉄舟が、身を清め白衣に着替えた姿で坐禅をくみ、そのままこの世を去ったのである。五十三歳であった。山岡鉄舟は、胃癌を患っていた。 1886年頃から胃の苦痛を訴えるようになり 、翌年8月には右脇腹に大きなしこりが現れた。食べ物も次第に咽を通らなくなり、1888年2月には流動食しか通さなくなった。明治天皇は、何度も侍医や見舞いの品を遣わされた。
 山岡は見舞客にはいつもニコニコ笑顔で対応をしたのだ。胃癌なので当然痛みはあったはず。痛みを止める治療薬のなかった時代、それでも鉄舟は、いつもニコニコ顔でいたのだ。医者は「おかしいねえ、苦しいはずなのに先生はどうしていつもニコニコしていられるのですか?」と尋ねると「胃癌、胃癌と言うけれど、これは胃癌ではなく”ニコリ”じゃから」と平然と答える山岡鉄舟であった。
 1888年の7月19日に勝海舟が見舞いに訪れた。玄関に出た息子に「親父はどうか?」と尋ねると、「今死ぬると言うております」と息子が答えた。座敷に入ると、大勢人が集まっていた。その真ん中に鉄舟が座禅をなして、真っ白な着物に袈裟をかけ、神色自若と座していたのだ。勝海舟は座敷の入り口に立ち「先生はご臨終ですか?」と問うと、山岡鉄舟少し目を開いて、ニコリとし「さてさて、先生よくお出でくださった。ただ今あの世に進むところでござる」 と苦もなく答えたのである。勝海舟は言葉を返して「よろしくご成仏あられよ」 と言ってその場を去った。勝海舟が別れを告げてすぐの事、鉄舟はこの世を去ったのである。臨終には白扇を手にして、南無阿弥陀仏を唱えつつ、まわりの皆に笑顔を見せて、妙然と現世の最後を遂げたのである。絶命してもなお、正座をしてびくとも動かなかったという。


           谷中全生庵の山岡鉄舟の墓

 亡骸は谷中全生庵に埋葬され、京都相国寺に於て大法会が行なわれたのである。この時の葬儀の列は七千人に及んだともいわれ、清水次郎長は子分衆を連れ、旅姿で参列したのである。この時、天田鉄眼は滴水禅師が山陰に出ていて、林丘寺を預かる身であったため上京が出来ずにいた。しかし後日、京都の相国寺で行われた大法会で鉄眼は法要をしたのである。更に、三回忌法会には上京し、鉄舟の眠る全生庵で菩提を弔ったのである。

 1892年(明治25年)、鉄眼となった五郎は林丘寺を去り、滴水禅師に許しを得て、清水寺に登る産寧坂のほとりに庵を結んだのである。そして師より賜った偈の一文字をとって愚庵と名を改め、ここに「天田愚庵」が誕生するのである。


       天田愚庵

(記者:関根)

<続く>次は「正岡子規との交流、そして次郎長の死」

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