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ザ・戊辰研マガジン

2021年1月号 vol.39

新政府軍についた三春藩とその諸藩

2021年01月06日 11:45 by norippe
2021年01月06日 11:45 by norippe

 春になると桜・梅・桃の花が同時に咲くので、「三春」と名付けたのが福島県三春町の名前の由来だそうだ。三春町というと日本三大桜で有名な「滝桜」があるが、町の至る所に桜を見ることが出来る。街の中に「城山公園」があり、そこが三春城跡になる。別名「舞鶴城」という。


三春城(舞鶴城)跡の案内版

昔は二の丸まで車が登れたのだが、今は二の丸下に駐車場が出来て、整備された石段を登るが、結構な急勾配で二の丸、本丸跡まで息を切らして登ることになる。
山頂の本丸跡には戊辰役三春藩烈士碑があり、秋田家祖先尊霊の石碑が建てられている。いたる所に桜が植えられ、春は桜花爛漫となる名所である。この城跡は標高400mの小高い山のため、本丸のある頂上からは三春の街並が一望できるのである。
この三春のお城は伊達政宗の正室として嫁いだ愛姫の生まれ育ったところでもある。
永正元年に田村義顕が築城したと伝えられている。田村清顕が死去後は、清顕に男子がいないため清顕の妻(相馬派)が三春の城主となった。
天正十六年に伊達政宗は三春城に入城し、1ヶ月半程滞在して田村領の仕置を行い、家中から相馬派は一掃され、清顕の甥の田村宗顕が三春城主なった。豊臣秀吉の小田原征伐の時、伊達政宗の指示により田村宗顕は参陣しなかったため奥州仕置により改易となり、三春城は蒲生領となった。そしてその後は上杉領、再び蒲生領、さらには加藤領と激しく入れ替わるが、三春城主には一族や重臣が配された。石高も5万石前後と一般大名なみの所領を与えられていたのである。
寛永5年に松下長綱が三春3万石に封じられ入城。この松下氏時代に三春城は改修され、それまでの戦国城館的なものから近世城郭として生まれ変わった。本丸、二の丸、三の丸を中心に形成され、本丸には表門・裏門・三階櫓などの建造物が置かれていた。
長綱は寛永21年に改易となり、翌年、常陸国宍戸から秋田俊季が5万5千石の領主として三春城へ封じられた。藩主は現三春小学校(城山の下)の場所に屋敷を構え、政務を行った。秋田氏が代々居城し明治維新まで続いたのである。


奥跡

幕末の戊辰戦争の際、官軍(薩摩・長州・土佐迅衡隊など)が棚倉城を落とすと、断金隊隊長の美正貫一郎の尽力や河野広中らの働きによって秘かに板垣退助らと会談して三春藩は奥羽越列藩同盟を脱退、官軍に無血降伏した。そのため、三春城は周辺諸藩と違い、逆賊のそしりを受けずに済み落城をのがれた。明治四年(1871年)廃城令で廃城となり建造物、石垣のほとんどを失った。

 奥羽越列藩同盟に属しながら脱退して新政府側についた東北諸藩は多くある。 三春藩もそのひとつで、同盟側からすればこれは裏切りの何ものでもない。
藩の存続のために新政府側につくのはある意味仕方のない事なのかも知れないが、二本松藩のように、義を貫くために最後まで戦った藩もある事を忘れてはならない。





奥羽越列藩同盟を脱退した経緯に、奇妙な事実があることが分かった。
 慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いで徳川方に味方をしなかったとして、温暖の常陸から寒冷の秋田の地に追われた者に佐竹氏がある。そしてこのため、先祖伝来の秋田の地から押し出される形で国替えとなった氏族に三春・秋田氏、新庄・戸沢氏、本庄・六郷氏、矢島・内越氏、それと由利五人衆の仁賀保氏など奥羽の五藩がある。

新庄藩の藩主は戊辰戦争時は第11代の戸沢正実であった。奥州列藩同盟から離脱したことで庄内藩に攻め込まれ、新庄城の大半はこの時に焼失している。城下も甚大な被害を受けた。ただ奥州列藩同盟からの離脱は、勝者となった新政府軍から評価され、功績として称えられている。明治になってから。旧領民の有志によって本丸跡に戸澤神社が創られた。代々藩主を務めた戸沢氏の祖・戸田衡盛、中興の祖とされる新庄藩初代藩主・戸沢政盛、そして最後の藩主となった戸沢正実を祭神とする神社である。戸沢氏で始まり、戸沢氏で幕を引いた城跡に鎮座する神社である。

本荘藩の六郷氏は戦国時代には出羽国山本郡六郷を支配する国人領主で、仙北七人衆の一人に数えられていた。「六郷政乗」のとき豊臣秀吉の「小田原征伐(北条征伐)」に従軍し、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では東軍(徳川家康)に与して小野寺氏を攻撃した。戦後その功績により六郷4500石から、佐竹義宣が移封された後の常陸国新治郡府中に1万石の大名として加増移封された。慶応4年(1868年)、一時的に「奥羽越列藩同盟」に参加したものの、久保田藩の呼びかけですぐに脱退した。同年7月、新政府軍に与して、奥羽越列藩同盟の庄内藩と戦うことになった。しかし、軍勢が弱い上に武器が旧式だったため庄内藩の軍勢に敗れ、8月6日には「本荘城」に火を放って敗走した。藩主「六郷政殷」らは久保田藩に避難した。同年9月11日、奥羽鎮撫総督府から見舞金3,000両を賜る。同年9月下旬、明治新政府の援軍が来援したことで反撃に転じ、本荘城を奪回した。明治2年(1869年)6月12日、戊辰戦争での功績を賞されて永世1万石を賜った。

矢島藩は出羽国由利郡矢島(秋田県由利本荘市矢島町)周辺を領有した外様藩。旧讃岐高松藩主生駒高俊が、いわゆる生駒騒動の責めを負って、寛永17年(1640年)領地を没収され、矢島1万石となった。領域は由利・山本2郡のうち45か村。万治2年(1659年)高俊の子高清の就封にあたり、弟俊明に2000石分与、高清は8000石で交代寄合となり、江戸に居住した。慶応4年(1868年)戊辰戦争で庄内藩討伐に参加し、新政府に協力した功により、1万5000石となり、ふたたび矢島藩が成立した。明治4年(1871年)廃藩置県で矢島県となり、さらに秋田県に編入された。

戦国時代、秋田の由利地方は進藤・渡辺両氏が支配したが、両氏が対立するようになって康安元年(1361年)から貞治2年(1363年)にわたる抗争のなかで、両氏ともに滅んでしまった。以後、100年間にわたり由利地方には地頭がなく、掠奪暴行が頻発したため住民の代表が鎌倉に陳情し、その結果、十二頭が信州から下って来た。そして、信州から下ったという十二頭が次第に衰えて、新しく編成変えされたのが応仁元年(1467年)のことである。その時の十二頭は、仁賀保、矢島、赤宇津、子吉、打越、石沢、岩谷、潟保、鮎川、下村、玉米、滝沢の諸氏であった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の天下統一によって由利十二頭は「由利衆」として把握され、根井氏や下村氏などは二百石にも満たない石高で知行安堵の対象となっている。そして、仁賀保氏と由利(滝沢)氏の抗争は矢島氏が滅亡することで終熄し、由利地方にも一時的な安定期が訪れた。このころから、仁賀保・赤尾津・滝沢・打越・岩屋をとくに「由利五人衆」と呼ばれるようになり、五人衆はたとえば文禄2年(1592年)の朝鮮出兵には、大谷吉継の一手として与力的に配属されて軍役を担った。

 戊辰戦争の際に六藩(三春藩と秋田藩を含むこれら四藩)が、まるで話し合いでもしたかのように新政府の側についた。時期は一致しないが新政府側に付いたのは、これらの藩ばかりではなく都合十六藩にも及んだ。しかしその中にあっても、これら六藩の統一したような行動は、単なる偶然だったのだろうか?

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