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「伊能忠敬」磐城國訪暦

2021年01月06日 11:44 by norippe

「伊能忠敬」磐城國訪暦

「日本歴史大辞典」から


1745~1818 (江戸中期)
 上総國武射郡小堤村の神保貞恒の第三子、18歳の時、下総園香取郡佐原村の名門伊能家に入夫し、忠敬と改める。
 忠敬は、伊能家の家運の挽回をはかり、商才を発揮して、家業の醸酒のほかに、
米穀取引の業を営み、江戸に薪問屋を設けた。また、村治に力を尽力し、功によって苗字帯刀を許された。
 50歳の時に、長男に家督を譲り、江戸に出て、若年より好むところの暦数の研鑚に志し、西洋の魔法や測量の技術に精進した。(行年74才)

①.当時の我が日本国の事情など

上記の「伊能忠敬」人物紹介の後段に、次のような記述がある。

 当時、日本には実測の地図は存在せず、忠敬はその作製を志したが、たまたま、
ロシア船がしばしば北辺に侵し、海防の必要が痛感されたので、忠敬は蝦夷地の
測量を幕府に願い出た。
 その結果、1800年(寛政12年)、命を受けて蝦夷地測量に従事し、1816年
(文化13年)までに、全国の測量を完成した。

②.「伊能忠敬」は、足掛け17年・10次にわたる全国調査を実施した。

「伊能忠敬 歩いて日本地図を作ったた男」から、その足跡を取りまとめると、概ね、次のようになる。

測量順  実施期日      主な測量地
第1次測量 1800 4.19~ 10.21 奥州街道 津軽半島 北海道・南 同・東海岸
第2次測量 1801 4.02~ 12.07 伊豆・房総 常陸 磐城 陸中海岸 下北 津軽
第3次測量 1802 6.11~ 10.23 会津・新庄 竜飛岬 日本海北岸 長野・熊谷
第4次測量 1803 2.25~ 10.07 東海道沿岸 東海縦断 越前・越中 越後・佐渡
第5次測量 1805 2.25~翌11.15 紀伊半島 瀬戸内海 日本海西岸 琵琶湖一周
第6次測量 1808 1.25~翌01.18 京都・淡路 四国一周 大阪・奈良 吉野・伊勢 
第7次測量 1809 8.27~11.5.08 甲府・諏訪 宮崎・桜島 熊本・大分 中国山地
第8次測量 1811 11.25~14.5.23 屋久種子島 壱岐・対馬 五島列島 長崎・小倉
第9次測量 1815 04.27~翌04.12 伊豆七島 伊豆下田 富士山麓 関東西部
第10次測量1815 02.03~翌10.23 江戸市中

※「注」「第2次測量」の行程概要は、次ぎのとおりである。
1801年(享和元年)4月2日、江戸深川の自宅を出発。富岡八幡宮に参拝した後、東京湾岸を西に向かう。三浦半島を一周、湘南海岸から小田原・熱海を経て、伊豆半島東岸を下田へ進む。さらに、伊豆半島西岸を北上して沼津に出て、東海道を東に戻り、いったん江戸に帰る。
6月19 日に江戸を出発、今度は東京湾を東に向かい、房総半島沿岸を一周してから、鹿島灘を北上する。磐城、松島、金華山、三陸沿岸を測量しながら、釜石、宮古を経て尻谷岬に進み、下北半島を一周して野辺地に至る。
その後、青森を経て11月3日に三厩に到着した。帰路は、奥州街道を再調査しなが
ら、12月7日に江戸に到着した。〔江戸の伊能忠敬から〕

③.「伊能忠敬」は、第2次測量(1801. 4. 02~12. 07)の行程で、常陸園.磐城國を通り、相馬・仙台方面へ向かっているが、「江戸の伊能忠敬」のうちから「磐城國」前後の状況を整理してみた。

〔1801年/真夏の季節〕

月日   宿泊地  (現・市町村名)  宿泊先名
8月 1日 村松村  茨城県 東海村
8月 2日 会瀬村  茨城県 日立市
8月 3日 足洗村  茨城県 北茨城市
8月 4日 平潟村  茨城県 北茨城市  鈴木忠三郎
8月 5日 米野村  福島県 いわき市  栄助
8月 6日 米野村  福島県 いわき市
8月 7日 米野村  福島県 いわき市
8月 8日 四倉村  福島県 いわき市  鈴木甚左衛門
8月 9日 四倉村  福島県 いわき市

8月10日 下北迫村  福島県 広野町
8月11日 小浜村  福島県 富岡町
8月12日 請戸村  福島県 浪江町
8月13日 塚原村  福島県 小高町  百姓の隠居宅
8月14日 島崎村  福島県 鹿島町  利兵衛
8月15日 島崎村  福島県 鹿島町
8月16日 原釜村  福島県 相馬市  長左衛門
8月17日 吉田浜  宮城県 亘理町  善蔵


※ 以上のことから、「磐城國訪問」は、次のように行われていた。
・年代→1801年(江戸中期) 8月5日~9日の4泊5日間
・宿泊地→米野村(現・いわき市小名浜) 四倉村(現いわき市四倉町)
・人数→6人(本人1、弟子3、従者2)~第一次測量の場合

④.「伊能図」は、実測による、始めての科学的な日本図として 、高い評価を得ている。

そのあらましを、「伊能忠敬 歩いて日本地図を作った男」(2018年発行)から、 ピック・アップすると次のようになる。

(1). 幕府へ献上
文政4年(1821)に、完備した製本が「大日本沿海輿地全図」として、忠敬永眠(1818)後、幕府に献上された。
 手書・針穴が鮮明で、色彩・描画・文字の丁寧さと、美麗さは素晴らしく、図面枚数は、大図214枚・中図8枚・小図3枚からなり、また、測量データ集「大日本沿海実 測録」14冊1鋪が、あわせて上呈された。

(2). 現存の地図
明治6年(1873)の皇居火災で、その原本は存在していない。現存しているのは、正本の副本・写本・模写本などである。「最終版伊能図」の副本は、日本全国は8枚からなり、北から南まで約7mの大作である。
その副本は、フランスのイブ・ペイレ氏の屋根裏から偶然発見されて、平成7年に、 日本に里帰りされた。

(3). 地図の性格
この「伊能図」は、測量・地図作成の理論や技術の面だけではなく、地図の枠組みという点でも、近代化への移り行きをみせている。
それまでの「幕府撰日本図」は、国絵図を集成したものであり、国郡の区画や石高の把握を最大の目的とし、幕府による全国統卒の象徴という意味合いを持っていた。

(4). 測量の方法
測量技術の体系では、現代の道線法と交会法とされており、棒の先に羅針盤を備えた杖先羅針と称する測器で、方向角度と測り、その間の長さを尺で測った。第一次では、忠敬の歩幅(69cm)であったという。
その後、さまざまな測器の改良・工夫が加えられた。例えば、羅針盤の部分が自由自在に動くようになり、また、地面に設置すれば、必ず、盤面が水平になるよう工夫されていた。

【総括】
これ以上の詳細については、「伊能忠敬歩いて日本地図を作った男」などの参照を、お願いしたい。いずれにしても、それまでの絵図面から実測図へと、「伊能図」の完成は、江戸中期の世代において、日本の近代化に、大きな礎になった、画期的な出来事であった。

次に、再確認となるが、1801年8月5日~7日→小名浜に、8月8日~9日→四倉町に、訪問・滞在していた。

〔参考文献〕
*「江戸の伊能忠敬」 (2002年発行)
*「天と地を測った男」 (2003年発行)
*「伊能忠敬歩いて日本地図をつくった男」(2018年発行)

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