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2021年1月号 vol.39

十津川郷士③(新たな指導者・上平主税)

2021年01月02日 17:14 by tama1
2021年01月02日 17:14 by tama1

十津川郷士③(新たな指導者・上平主税) 

テーマ:大和の歴史 ②「誓いの碑」では八人の侍たちの建碑運動により、「護良親王御詠之碑」が建立された ことを書きました。

今回はその続きです。

  その八人の中から特に、知略、人望に優れ仲間のリ-ダ-となっていたのは乾丘右衛門 (いぬいきゅうえもん)と上平主税(かみだいらちから)の二人でした。

 長沢も二人を買っていたらしく、碑の撰文中に、「是故、宜章及び長矩の謀に与し、石に 勒して将に之を不朽に伝えん云々」と、わざわざ二人の諱を明記していることでもわかり ます。郷士仲間もこの二人には、一目置いて頼りにしていたようです。

 こうして十津川郷士の勤王活動は長沢俊平を参謀に、乾丘右衛門、上平主税を牽引役に 仰いで、早速活動の場を求めて京へ出ることになりました。 が、・・しかし、指導者と頼んでいた乾丘右衛門と長沢俊平の二人が、京へ上る直前に 急死したのです。

 乾丘右衛門という人は、風屋村の富裕な旧家の生まれで、豪放闊達な性格であったため、 交友が広く梅田雲浜や五條の儒者森田雪斎、その弟子乾十郎ら尊攘派の大立者はもと より、時の五條代官内藤杢左衛門ら幕府側の要人からも信頼されていたそうです。 郷内で最初に尊王攘夷を唱えたのもこの人で、滝峠の御詠碑建立の際も長沢とともに 上京、碑文の染筆入手に奔走しています。が、建碑作業最中の安政四年四月、病に罹り 、同年九月、三十五歳で病没した。碑が完成してわずか一ケ月後のことでした。

 さらに、それから二ヶ月後の十一月、今度は長沢が死にました。小栗栖の自宅で割腹した という。何故腹を切ったのはよくわからないようですが、西田正俊著「十津川郷」には 「義憤の結果」とあることから、或いは同年五月、幕府が米公使ハリスとの下田条約に 調印したことを聞いて悲憤したのだろうか。 いずれにしても唐突な死であったようで、頼みとしていた指導者が三人のうち二人まで 急死して、郷士らの動揺は大きかったことでしょう。

 一人残された上平主税は同志の意見を聞いた末、「断固立つべし」との主張に改めて 上平が新たな指導者-郷惣代となり、京へ出て長沢や乾の遺志実現に挺身することを 誓いました。そして上平を助ける新たな指導陣として長老の丸田藤左衛問、全国を歩いて 各地の尊攘派と繋がりをもつ深瀬繁理(ふかせしげり)、郷内一の物識りといわれる 野崎主計(のざきかずえ)らを選び、年が明け次第、京へ上ることを決めています。

 尚、深瀬と野崎は後に天誅組と大きく関わっていきます。

 上平主税は文政七年(1824)9月14日、野尻村に生まれ、この時三十三歳。小柄だが 精悍で、識見もあり、機略縦横、十津川郷の知恵袋として何かと頼りにされる存在だった と西田正俊著「十津川郷」は述べています。

 生家は野尻村の庄司で、郷の惣代をも務める家柄だったが、父により医術の修業を命ぜ られ、少年の主税は、紀州・橋本の松岡梅軒に入門、二十歳のころまで医術を学んでい ます。郷に帰った主税はそれから十年は村に唯一の医師として、たちまち郷の名士となり ました。主税が郷の代表として初めて記録に登場するのは、彼が三十歳になった嘉永六年 (1853)九月でした。

 前回②誓いの碑項でも述べたが、この年六月、浦賀で例のペリ-の黒船騒ぎが起きた時 興奮した郷士達が五條代官所へ「一郷協力して応分の御用を勤めたい」と建白した。この 時、郷士の惣代として代官と折衝したのが、主税と平谷村の郷士藤井秀蔵(織之助) でした。結局は不発に終わったが、この段階では、尊王か佐幕か、といった明確な意思は まだ定まっておらず、ただ風雲に乗じて活躍したい。という衝動に駆られていたに過ぎな かったようです。

 主税が尊王攘夷という思想に染まるのは、翌安政元年のことで、例の長沢俊平の勧めで 乾丘右衛門、野崎主計らともに、京へ出て梅田雲浜を訪ねたことに始まっています。

 雲浜は尊攘志士の大立者で、水戸藩などと提携して黒船襲撃計画を進めていたので、 その持論を聞くにおよび、大きな影響を受けたようです。

 雲浜は、日本は元来、神-天皇が統治し給う国なのに、幕府政治がそれを歪めている。 黒船事件にみるように外国に侮りを受けているのも、その為だと・・・従って一日でも早 く国体を神武天皇創業の王政に戻し、国力を充実させるべきだと、山家育ちの郷士にも わかるように懇切丁寧に説いたとあります。

 雲浜はまた、十津川の歴史にも詳しく、郷が昔、壬申の乱(672)や保元の乱(1156)、 元弘の変(1331)などに兵を出し、朝廷方に尽くした故事を挙げ、「先人に倣って今こ そ天皇のために起たねばならない。即刻起つべし」と、終始、正座を崩さず、物静かに 語る姿に主税はすっかり魅せられ、その主張にも共鳴するところが多く、特に郷人に 潜在する天皇への親愛感を指摘されたときには、思わず膝をうち、十津川郷はこの雲浜 と手を結び王事に尽くそうと心に決めたといいます。

 そして、八ヶ月後の安政元年九月、ロシアのプチャ-チンが大坂湾に現れた時、主税は その思いを実行に移しています。 プチャ-チンはペリ-の威嚇外交に刺激され、江戸より京の朝廷に直接開国を交渉しよ うと、軍艦ディアナ号で大坂湾に乗り込んで来ました。 慌てた大坂城代土屋采女正は、近隣諸般に警備を命じ、その指令が五條代官を通じて 十津川郷にもたらされました。主税はこの機会に雲浜を領袖に仰いでディアナ号を撃攘 、宸襟を安んじ奉ろうと郷内の同志に図り、雲浜に出馬を求めました。

 雲浜も勿論、快諾したので、彼らは直ちに出撃準備にかかったが、肝腎のディアナ号が 大坂湾から姿を消していたのです。 伊豆の下田で交渉をしたいという幕府の要請を容れ、半月に及ぶ大坂湾停泊を打ち切っ て下田へ発った後だったのです。 露艦に乗り込んで、夷人を皆殺しにする計画は不発に終わったが、雲浜と上平主税ら十津 川郷士との結合は、これを機に一層強くなっていきます。

 明けて、安政五年(1858)正月、主税は丸田藤左衛門、深瀬繁理、野崎主計ら新しい世話 役たちと連れ立って京へ上り再度、梅田雲浜を訪ねています。王事に尽くそうと上京する 郷士らに、活動の場を与えてもらえるよう依頼するためでした。 雲浜は「郷の方では何か素案をお持ちかな」と尋ねると「御守衛となって禁裏をお守り出 来ればと願っておりますが・・」と主税は答え、何卒要路におとりなし願いたい。と頼ん でいます。人数はどれだけ出せる?との雲浜の問いかけにも千二百を目途にしています。 との返答に、さしもの雲浜もびっくりしたようです。

 千人を超すような兵を動員出来るの は、よほどの大藩でもなければ不可能であり、藩ですらない一介の草莽にそんな大規模 な出動が出来るのか。雲浜が驚くのは無理もないことでした。

 主税はそのわけを、かいつまんで説明しています。 郷には十五歳から四十歳までの壮丁が二千人余いる。黒船騒ぎ以降、郷中では、これらの 壮丁に軍事調練を施し、また村ごとに十匁銃、槍、陣笠、カルカン袴などを備蓄して、いつでも出動できる態勢を整えていました。

 郷内五十九ヵ村の庄司(総代)で構成された庄司会議に全権があり、壮丁の出動もこの 会議にかけるだけで容易に実現できるという。 郷民はみな、天皇のためなら、身命を投げうってでもご下命があれば、代官所がどう咎め ようとも、全員ただちに馳せ参じます。と訴えています。

 雲浜は大きく頷き、ただ情熱のおもむくままに脱藩し、京へ出てきて、尊攘、尊攘と騒ぎ たてているだけの浪士よりは、まだ現実的である郷士達に好感をもったようです。 雲浜はさすが、尊攘派の大物だけに長州や朝廷に多彩な人脈をもっていた。かれは主税 ら郷士代表にそれらの人々を次々紹介し、顔つなぎをさせています。 西田正俊著「十津川郷」にはその折、主税らが接触をもった人物の名が列記されています。

 吉見良三著「十津川草莽記」より   次回④に続きます。

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