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ザ・戊辰研マガジン

2020年02月号 vol.28

【幕末維新折々の記・二】七卿落ち

2020年02月06日 23:31 by tange

 文久3年(1863)8月18日、朝廷内で過激な攘夷を唱え盛んに偽勅を発していた三条実美ら七人の公卿たちと、彼らを背後で操っていた長州藩がそこを追われた。孝明天皇の御沙汰を受け、薩摩と会津の両藩が主導した政変だった。
 鷹司邸に逃れていた七卿は、その日の夕刻、親兵および長州藩士とともに方広寺へ退き、妙法院に入る。翌朝5時頃(暁七ツ半時分)、そこを出立し、8時頃(朝五ツ時分)伏見へ着いた(菊池明編『京都守護職日誌・第一巻』)。
 この時の様子を七卿の一人、澤宣嘉が描いた「七卿落図(しちきょうおちず)」が残されている。画面全体を斜めの縞模様に濃淡を付けて塗り分け激しい降雨を表現し、公卿たちは蓑を羽織り大きな笠もかぶっている。いかにも、雨の中、寂しく都を落ちてゆく悲劇性が巧みに表現されている。さらに、この8月19日は今の10月1日で、秋雨の冷たさが画面から伝わってくるようだ。
 「七卿落ち」というと、雨中の追放劇が付きまとって伝えられてきた。彼らにとって理不尽な京都からの追放を語るのには都合が良かったのであろう。「強い雨の中、七卿が京都を去った」とするのは真実だったのか?ここに検証してみたい。
 会津藩士の鈴木丹下が、「八月十八日の政変」時の御所警備で目撃した事実を詳細に記録し、「騒擾日記」という手記を残している。そこから、18,19日の天候についての記述を抜き書きする。

『文久三年八月十八日は晴れて暑く、太陽が妙に赤かった。夕方になり曇り、夜は雨が降っていた。……夕七ツ時(午後4時)頃、空が掻き曇り、小雨が降り出してきたが、そのまま濡れるにまかせていた。……夜が更けるにつれ、雨脚も強くなってきた。……明け方より、雨は止んだ』

 19日の明け方には、夜通し降っていた雨は止んでいたのだ。東山七条妙法院と御所は、直線で3km余の距離なので、ほぼ同じ天候だったと理解して良い。
 丹下が記述した『明け方より、雨は止んだ』の明け方とは、何時頃だったのであろうか。時計などを持っていなかった丹下にとって、明け方とは文字通り明るくなり始めた頃である。旧暦8月19日(現、10月1日)の京都における日の出は、5時51分である。ただし、日の出時間にどんぴしゃりではなく30分ほど前から明るくなるので、丹下が明け方としているのは5時20分頃と推測できる。
 一方、七卿の出立は、先に述べたように午前5時頃と記録されている。つまり、小雨になりながら止んでいった雨に、たった20分ほど濡れただけなのである。澤宣嘉の「七卿落図」は、誇張に過ぎている。それは京都を追われた七卿の心象表現なのであろう。
 しかも、彼ら七人だけが、とぼとぼ歩いて京都を離れたのではない。その時、他に仲間である二十一名の公家や、彼らを護衛する親兵と二千を超える長州藩兵がいたのである。「七卿落図」には、その事実も描かれていない。

 平成最後の桜の見ごろどき、七卿が政変の夜を過ごした妙法院を訪ねた。
境内に彼らを称える巨大な石碑「七卿碑」が建てられている。それは、有栖川威仁親王の篆額(てんがく)を得て、大正元年(1912)9月に建立された。その前に立つと、三条実美らが孝明天皇の御意に背いて盛んに偽勅を発していたことなど、すっかり忘れ去られていることに気が付くのである。
 
妙法院の庫裏(国宝)は、桃山時代の建築様式を今に伝える素晴らしい建造物だった。
(鈴木 晋)


 妙法院・庫裏(国宝)

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