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ザ・戊辰研マガジン

2020年1月号 vol.27

幕末の会津を支えた会津藩筆頭家老『西郷頼母』

2019年12月21日 18:28 by tetsuo-kanome

 会津藩の筆頭家老(国家老)の「西郷頼母」について、私はいつか当マガジンに投稿しようと思っておりました。

 西郷頼母は、会津松平藩の名門に生まれ、文久2年(1862)に32歳で筆頭家老となりました。頼母は藩主の遠縁で代々家老職を務める名家の出身です。会津藩主の松平容保公が京都守護職の拝命にあたっては、同職の田中土佐とともに江戸に駆けつけ、国力に鑑み、強く反対しましたが、聞き入れられず容保公は守護職を拝命しました。文久3年(1863)4月に上洛し、容保に守護職辞職を求めるが容れられず、「御免御叱」にて家老を免職となって会津の長原村で蟄居となりました。以後5年間、会津で幽居生活を送りました。慶応4年(1868)に旧幕軍が鳥羽伏見の戦で敗走し、容保が会津に帰国してから頼母は家老に復職。戊辰戦争では白河口総督として奮戦しましたが、白河城は落城し敗走して会津へと戻り、和議恭順を唱え抗戦派に命を狙われ、再び、登城さしとめ・蟄居処分を受けました。新政府軍が城下に迫るのをみて、禁を犯して登城しましたが、再び恭順を説いて主戦派と対立し、越後口方面への使者にかこつけて長男と共に城を出されました。松平容保公が西郷頼母の命を助けるために伝令をだしたという説もあります。西郷頼母邸跡は、會津鶴ヶ城北出丸の正面の追手町にあり、西郷家は重臣(藩祖以来)であった証であると思われます。

【西郷頼母邸跡】

 慶応4年8月23日(現在に10月8日)、新政府軍は戸ノ口原で白虎隊らを破り、土佐藩の板垣退助らを先頭に若松城下に進攻しました。城下では、戦いの足手まといにならないようにと自刃(じじん)した婦女子が多くおりました。西郷頼母邸では、千重子(飯沼家より嫁ぐ)の長女ら5人をはじめ、一族21人が城に入らず屋敷で自刃しました。千重子の義母の律子(りつこ、58歳)、妹の眉壽子(みすこ、26歳)、妹の由布子(ゆうこ、23歳)、長女の細布子(たいこ、16歳)、二女の瀑布子(たきこ、13歳)は、辞世の歌を残し自刃。千重子は、三女の田鶴子(たづこ、9歳)、四女の常盤子(とわこ、4歳)、五女の李子(すえこ、2歳)を刀で刺し、母と妹らは互いに刀を刺して亡くなりました。その他、支族の西郷鉄之助夫婦、母の実家・小森家の祖母や婦女子、親戚で江戸藩邸から避難し、西郷家にいた親戚ら21人が亡くなりました。西郷頼母の妻・千重子の辞世の句碑であります「なよたけの碑」は、寛永20(1643)年、会津松平氏の祖保科正之公とともに山形から移った曹洞宗祥雲山善龍寺境内にあります。山門は戊辰戦争でも焼かれず当時のままです。石碑の名前は、北出丸前の本一ノ丁(ほんいちのちょう)に位置した松平家の分家にあたる西郷頼母(1700石/1石は米150キログラム)邸で、妻・千重子が自刃した際の、辞世の句からとったもの。右脇にある千重子辞世の碑文の文字は、飯盛山で自刃し蘇生した千重子の甥、「飯沼貞吉」が書きました。碑文の意味は「女(め)竹、細竹は、風に任せているように見え、私も今の時代に身を任せているが、竹にも折れないための節があるように、女性にも貞節があることを知っていてほしい」というもの。千重子は34歳でした。石碑の裏側には、戊辰戦争で亡くなった会津藩の婦女子233名の名前が刻まれている。石碑は、昭和3年に建立されました。

 なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節の ありとこそきけ 西郷千重子

【西郷千恵子】

【善龍寺】

 

 会津若松市内の東山温泉の入り口に開設されました「会津武家屋敷」には、この自刃の場が再現されております。

 西郷頼母は、戊辰戦争後、米沢・仙台を経て五稜郭に至り、五稜郭降服後は、しばらく館林藩に幽閉されました。その後は福島県伊達市の霊山神社の神官として余生を送り、一時は日光東照宮宮司を務める旧主容保のもとで禰宜も務めました。明治32年頼母は70歳を迎え、福島県伊達市霊山町の霊山神社の宮司を務め、その後、会津に帰って、明治36年西郷邸跡に近い会津若松市東栄町の香寿庵奥の長屋で亡くなりました。頼母の遺言により妻の千恵子や家族が葬られている「善龍寺」に墓が建てられました。享年74歳。

 西郷頼母の評価は、戊辰戦争研究会の皆様の中でも賛否両論あると思います。頼母が「松平容保公が京都守護職就任の際の反対」や「戊辰戦争時の早期和議恭順の進言」は、良識的な判断であり、今でも私は、西郷頼母の進言の数々は決して間違ってなかったと思います。筆頭家老であった西郷頼母は、会津藩のことを最優先に考えた末の進言だったのに違いありません。ただし、「戊辰戦争の白河口総督としての敗走」は武将としての才能は乏しかったのかもしれません。武器の性能の圧倒的な差があったとはいえ、山川大蔵は、「日光口の戦い」同じ条件でも善戦したわけであります。

 明治の世になり、日光東照宮で松平容保と西郷頼母が再会してどんな話をしたのか興味深いです。

【記者 鹿目 哲生】

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