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ザ・戊辰研マガジン

2019年12月号 vol.26

自分で命を絶った人々

2019年12月06日 22:30 by norippe
2019年12月06日 22:30 by norippe

 先日見たテレビで、一人の日本人女性の安楽死のドキュメンタリー映像が流れていた。 安楽死が容認され海外からも希望者を受け入れている団体があるスイスで、その女性が安楽死を行った。3年前に、体の機能が失われる神経難病と診断されたその女性。歩行や会話が困難となり、医師からは「やがて胃瘻と人工呼吸器が必要になる」と宣告された。その後、「人生の終わりは、意思を伝えられるうちに、自らの意思で決めたい」と、スイスの安楽死団体に登録した。
 安楽死に至るまでの日々、葛藤し続けたのが家族だ。自殺未遂を繰り返す本人から、「安楽死が唯一の希望の光」だと聞かされた家族は、「このままでは最も不幸な最期になる」と考え、自問自答しながら選択に寄り添わざるを得なくなった。そして、生と死を巡る対話を続け、スイスでの最期の瞬間に立ち会った。
 ベッドの横に置かれている点滴スタンドの容器に薬が投与された。点滴は管を伝わり女性の身体に入り込むのであるが、管の途中にあるストッパーで液が止まっている。そのストッパーを回すことで液が身体の中に入り込み、数秒で絶命するのである。そのストッパーを回すのはその女性本人なのだ。その女性は家族に向かって「ありがとね、ありがとね」と言ってストッパーを回した。「ありがとう」と言う声が次第に小さくなり、数秒で声が途絶え、そして命も絶えたのである。
 日本では安楽死は認められていない為、遺体を日本へ持ち帰ることは出来ない。遺灰はスイスの川へ流されたのである。

 死には「尊厳死」や「安楽死」というものがある。尊厳死とは、不治で末期に至った患者が、本人の意思に基づいて、死期を単に引き延ばすためだけの延命措置を断わり、自然の経過のまま受け入れる死のことである。本人意思は健全な判断のもとでなされることが大切で、尊厳死は自己決定により受け入れた自然死と同じ意味である。
 また安楽死は患者の求めで、消極的には医師が必要な治療を控え、積極的には薬で死なせたりする行為である。スイスやオランダなど一部の国、地域ではこれが認められているのだ。

 人の手を借りずに自分で自分を殺す自殺には「自刃」や「自害」と言う言い方がある。「自刃(じじん)」は、刀を用いて命を絶つことで、武士などが切腹をして命を絶つ事も自刃と言う。現代では使うことはほとんど無い。一方「自害」は刀などを用いる以外、ガスや紐や薬など様々なものを用いて命を絶つことを言う。

 過去の歴史の中で自分で自分の命を絶った人物は数え切れないほどいる。
 今から半世紀ほど前、東京市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をした三島由紀夫。この時私は19歳であったが、ニュースを見て大変な衝撃を受けた。腹を切るのは侍だけかと思っていたが、まさか現代において起こるとは思わなかった。
 また、明治天皇が崩御し大喪の礼が行われた大正元年、赤坂の自邸にて妻とともに自刃した乃木希典。崩御した明治天皇を追って命を絶ったと言われている。乃木は想像を絶する程の自刃で命を絶ったのである。



 幕末においては何と言っても忘れてはならない会津飯盛山での白虎隊の自刃がある。そして会津藩家老西郷頼母の妻が一族21名とともに自刃した悲劇もある。
まだまだ数え切れないほどの人物が自分で命を絶っているのだ。

 追い詰められて行き場が無くなっての自殺や、敬う人への後追い自殺など自殺に至る理由にはいろいろだ。

 戊辰戦争において尊王を唱え自らの命を散らした志士がいた。
 磐城泉藩の松井秀簡。文政9年泉藩士松井兵蔵の第三子として生まれ、通称を兵馬と言った。平藩の儒者神林復所に学び、17歳で徒目付兼教授に就任、安静2年29歳で代官に抜擢された文武に長けた藩士であり、後に郡奉行を務めたという。
 この松井が生まれた頃は、孝養としての和算法から脱却し、天文や地理をもからめた実学的な測量技術を以って、初めての日本地図を完成させた伊能忠敬らの国際レベルの測量技術が注目されているときでもあった。泉藩でも、特に松井にとっては、唐船見張り番所の海防や領内の検地、経済などへ向け、積分学の完成を見たばかりの和算法や、この新たな測量技術の習得に興味を持っていた。後に『当用算法』を著す三春藩の佐久間や、広島からの棚倉藩に来て和算法による積分学を伝授する法道寺善らの算師に就いたのもうなずける。算法の隆盛期に活動した松井秀簡の思想は、時の流れでは勤王論を説いたが入れられず、明治元年6月22日に自刃した。43歳であった。大正14年、松井秀簡はその功によって位階を贈られ靖国神社に配祀されたと「松井秀簡君碑」はいう。

 また二本松藩の農兵隊長である三浦権太夫義彰。
 義彰は天保8年、藩士三浦義武の長男として出生、通称を権太夫という。父の義武は百三十石取りの郡奉行、勘定奉行の職にある一方、多趣味の持主であった。庭には四季折々の花、草木を植え、池には白蓮を配し錦鯉を放ち、室内には多くの書幅画帳を集め鑑賞し、また自らも画を白河の春木南湖に学び、松湖と号しその作品は高い評価を得たのである。
 こうした環境の中で育った義彰もまた、少年のころから藩儒学者・堀謙斎の門に学び文武教育を会得して尊王の志を抱くようになった。
 義彰の性格は質実剛健、清廉潔白、そして藩を思う心は人一倍強かった。文久2年5月藩主の参勤交代に従って江戸詰めとなった。初めての執務の中で、家老座上の丹羽丹波をはじめとする重臣たちが、藩政を欲しいままにしていることに憤慨したのである。
 さらに、幕藩体制の不安定さが見え隠れするなど、時勢の推移を憂慮し、ついに丹波へ藩政刷新を説いた建白書を送り付けたのだ。
「人材を登用し、能吏に任じて兵制を改革し、軍備を充実すべし。また冗費を節約すべし。さらに費用が続かねば、三百石以上の重臣の俸給を半減すべし。」というものであった。その建白書が重臣たちの反感を買い、策謀により藩政を乱す者として二本松に送還され、投獄処分となってしまったのだ。義彰は再び、獄中から建白書を送ろうとしたが、不成功に終わってしまった。翌年、出獄を許されたものの自宅禁固処分のため、子弟を集めて教授する日々を送った。
 慶応4年、戊辰戦争の戦火は白河以北に達し、7月下旬には二本松藩領まで及んだことで、義彰はようやく赦免された。そして、藩命により農兵を率いて藩境の杉沢村(現岩代町)に出陣、のち後退して安達ヶ原の供中口を防備することになった。
 出陣に際して義彰は、両親に対して「天皇に対抗する意志は全くないが、藩命に反抗することもできない。一死をもって双方に臣節を全うする覚悟である。」と告げたという。
 出陣姿は烏帽子に直垂、また弓矢を携えたものの忠節心から鏃を外した矢で西軍と応戦するが勝敗の帰結は早く、農兵を退去させたのち、一人丘に登り自刃し命を絶った。そして 義彰の屍の横にあった弓弦には辞世の句が結び付けてあったのだ。
 「あす散るも色は変わりじ山桜」
 享年32歳、義彰は安達ヶ原の観世寺に眠っている。
 なお大正7年、東軍戦死者としては唯一尊王義士として靖国神社に合祀されたのである。

 人は追い詰められたり、希望を失った時、自分の存在をこの世から抹消したいという思いにかられる。時代が変わってもその思いは変わらない。

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