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会津藩校「日新館」を巡る

2019年11月28日 11:15 by date

 11月17日の日曜日に「会津藩校・日新館」を巡りました。
 当日は会津若松市の「ワシントンホテル」にて開催されましたシンポジウム討論会に先立ち、戊辰戦争研究会の会員10名の史跡巡行が行われました。
戊辰戦争研究会は、歴史作家・星亮一先生がインターネットで呼びかけられた歴史研究会で、全国に50名ほどの会員が散在しています、ですから全国の会員が一堂に集まるなんてことは難しくて、全国の支部がそれぞれ行事や史跡巡行・講演会などの活動を行っております。
 全国の支部とは、東北支部・関東支部。関西支部・九州支部がそれぞれ独自の活動を行っております。
今回は東北支部の担当で、会津若松市に全国から集まりました。岡山県・東京都・埼玉県・岩手県・福島県(いわき市・小野町・坂下町・二本松市・猪苗代町・福島市)など多岐の町や村から集まりました。(村人はいません)

館新日」、現代では「日新館」と書きます、当日の参加者9名で記念写真です。
 
 日新館の正門の前で「會」の旗を中心に写真を撮りました、特筆なのは戊辰戦争研究会に入会されたばかりのかた2名さんも一緒です。初めての研究会の行事に参加されましたので緊張されたことでしょう。ちなみに新入会員の方、女性の方は会津坂下の方で男性の方は岩手県一関市の方です、ますます全国区になりました。
 日新館はそもそも会津若松市内の鶴ヶ城近くの西方に立地していました、それが戦後(この場合の戦後とは戊辰戦争を指します)に明治新政府が鶴ヶ城を取り壊して、その跡地には競馬場を作り博打の場としました。会津藩の鶴ヶ城は強大な武力をもって攻め立てた官賊(この場合は薩長をいう)にとっては、残してはいけない城でした。この鶴ヶ城が儀を守った会津武士のシンボルとなり、薩長が攻め立てた会津・東北の人たちの、明治新政府に対する敵対勢力の基幹とならないように取り払い、跡形を消え去ることが大切だったに違いありません。

 しかしながら昭和の時代に会津の河東町の広田の広大な敷地に「日新館」は出現します。広大な敷地を利用した「日新館」ですが、今の時代に必要なことは観光施設であることです、そのためには静寂な環境も必要ですが車での観光客の呼び込みに必要なそれなりの駐車場が必要です。そのことによって県内各地や全国からの観光客が観光バスで乗り付けました。
 福島県内でも往年の人たちは、遠足できたとか修学旅行で来たという人も多く、会津若松観光と言えば「鶴ヶ城・白虎隊・日新館」となるわけでもある。
今回の戊辰戦争研究会の「会津シンポジウム集会」に参加された福島県人5人はすでに何度か「日新館」を訪れているそうです。

駐車場から入ると迎えてくれるのが「南門」です

駐車場から写真にあるような橋を渡ると「南門」が迎えてくれます、壮大なつくりです。しかしここには「下馬」の札がありません、千社札も見当たりません、手水者の設備もありません、賽銭箱もありません。ここが寺社仏閣ではありません、学校なんです会津藩の「日新館」という会津藩士の子弟のための学校、藩校なんです。

いよいよ藩校の中に入ります「戴門」で記念写真です。

藩校の正門というのでしょう「戴門」で当日の参加者全員で記念写真です(但しカメラマン1名が映っていません)。戴門の門並びには会津藩の日新館の教えの「什の掟」の大きな看板が立っておりました。

「什の掟」です」。

会津藩校日新館の「什の掟」です、読んでみますと耳に痛いことが書いてあります、俗物の筆者には無理なことがひとつあります「戸外で女性と口をきいてはならぬ」、さすがの筆者には守れないでしょう。もう一つあります「ならぬことはならぬものなのです」、たしかにそうでしょうが、そこを何とかお願いしますというのが筆者の願いです。
 日新館に来たのならばこの「什の掟」は読んでおきたいものです、できればこれからの人生の糧にしてほしいものです。

「大学」という校舎に入ります。

日新館見学では皆がそぞろ歩きで見学します、「大学」という校舎に入ります。

校舎の中での授業風景です。

 教室の中の授業風景です、侍の子供は皆人形です。その人形には白虎隊の隊員の名前がついています。
こういう授業で立派な会津藩士に育ったのですね、会津藩士の教養のたかさと見識の高さ、そして武士のたしなみの高さが伺い知れます。

校舎の中で「什の掟」を講義している人に会いました、こちらは本物の人間です。

 日新館「大学」の校舎を歩きますと一つの教室で「什の掟」を講義している人に会いました、これまでの教室では人形が講義をしていましたが、この教室では本物の人間が先生役となり講義をしていました。教えている相手は主に家族連れの子供たちです、子供たちは素直に講義を聞いていますが、大人になるころにはどうなるでしょう、一抹の不安がありますがここは試練です。
 子供たちに将来を託しましょう。

日本最古のプールです、「水練馬練場」

 会津藩「日新校」には日本最古のプールがあります。会津藩士の子弟たちはこのプールで水練しますので山育ちの子供たちですが泳げるのです。そのことは浅学の私でも知っていますが、ではなぜここ山国の会津にプールがあるのか?
 その答えは藩校のなかのパネルで説明がありました、江戸時代に会津藩は北の守りとして樺太などの北辺などに出兵していました、その帰還の途中に乗っていた船が沈没し会津藩士200名が溺れてしまいました。時の会津藩家老田中玄宰が泳ぎを推奨してプールを作ったのです。ですから会津藩士は山育ちであるにもかかわらず泳げる武士でもあったのです。でも水の中を泳ぐのは上手でも政治の中で泳ぐのは下手のようだったと思う。

日新館のなかにある弓道場

 藩校内を歩きますと「弓道場」につきました、当日は近隣の高校の弓道大会の日でした。高校生たちがそれぞれの学校の名入れのユニホームを身に包み、競技者を応援していました。
競技者が放った矢が的に当たると応援の女子高生らが声を揃えて「シャー」と掛け声をかけていました、そうなんです弓道の場合には成功すると「シャー」の声が飛ぶのです。これはおそらく「射」のことを言っているのでしょう。
 応援者の背中には高校の名前があります、県外育ちの私にはなじみがありませんが、土地名がついています。これらの高校生たちは将来の長州征伐の先兵となることを期待します。

「向陽処」を説明したパネル

 日新館の館内を歩いておりますとその一角に「向陽処」と書かれたパネルがありました。この「向陽処」という言葉は藩主松平容保公が斗南という苦難の地の藩士たちに「いずれ陽のあたるところに行こう」と云った言葉から来ています。斗南の人に将来はこうありたいと願ったのでしょう、容保公の悲痛な思いが伝わるようです。
 この「向陽処」の言葉を使った施設があることを筆者は知っています。
斗南藩と言われた下北半島の北端「大間町」に「斗南藩資料館」を個人で開いている方がいらっしゃいます、その資料館の名前が「向陽処」なんです。容保公が斗南藩士の望みとした言葉が大間町で凛として咲いています。
 「向陽処」うれしい言葉です。

天文台です

 日新館の北方面に立地する「天文台」です」、会津藩は天文学も藩士に教えていました、このことから全く先進的な藩校でした。
ここにある施設はかつての藩校を模しての日新館ですが、天文台に関しては当時のものが実際に鶴ヶ城の西方に残っております。ここの天文台で宇宙や星座を見て何を思ったのでしょうか、その時分の会津藩士に尋ねたいと思います。今の私には会津に思いを馳せて瞼の裏で望むしかありません。

 当日の「日新館巡行」は午後12時半から午後2時までの1時間半の行程でした、もっと時間を取れば良かったのかもしれませんが、当日はその後に星先生司会のシンポジウムに出席する予定でしたので、ここで終了です。会津ファンを公言する私ですが日新館がこれほど素晴らしい施設だとは知りませんでした、知らないのに会津藩校・日新館を讃えていました。
 これからは名実ともに一層の会津ファンになります。

記者 伊藤剛

 

 

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