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ザ・戊辰研マガジン

2019年12月号 vol.26

会津の若き知将・山川大蔵

2019年11月30日 19:01 by tetsuo-kanome

 私は、会津藩の藩士中で、神保修理、秋月悌次朗に続き、山川大蔵(のちに浩)について、いつか書こうと思っておりました。

【山川 大蔵】

 会津藩の山川大蔵は、戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いを経て江戸、会津へと転戦し、若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力しました。日光口の戦いでは、板垣、谷干城(たに たてき)率いる西軍(土佐軍)は、会津・幕府軍に苦戦を強いられ、敵ながらあっぱれな戦いぶりに感じ入った谷は、捕虜の旧幕兵に「近頃会津方が大層よく戦うが、其の隊の大将は誰であるか」と尋問すると、「大鳥(圭介)総督と幕兵ばかりではいかぬから、会津から山川大蔵と申す大将が副総督となって来ている」との返答により、西軍は若干24歳の山川大蔵(のち浩)という人物の存在を知ることになりました。その後すぐに山川隊は会津鶴ヶ城に呼び戻されるが、すでに城は薩長軍を中心とする3万の西軍に包囲され、入城することができない。そこで山川は一計を案じて地元の彼岸獅子の一団に頼み、10人の子供らを先頭に笛や太鼓で「通り囃子(はやし)」を演奏させながらそれに続いて堂々と行進して入城したのであります。西軍はあっけにとられ、一発の銃弾を撃つこともなかったというから、映画のワンシーンをみるようなあざやかさだったそうです。この見事な入城で城内には歓声があがり、士気も大いにあがりました。しかし所詮は多勢に無勢、鶴ヶ城が落ちるのは時間の問題でした。戦後、生きのこった会津藩士と家族は米のまったく穫(と)れない不毛の地、下北半島「斗(と)南(なみ)藩」(のち青森県)に移封され、逆賊の汚名を着せられる屈辱だけでなく、食うや食わずの凄惨な生活を強いられることになりました。

 そして明治5年末、廃藩置県で斗南藩大参事から青森県に出仕していた山川のもとを谷干城が突然訪れました。二人はこのときが初対面でした。戊辰戦争での山川のあざやかな戦いぶりを忘れずにいた谷は、「政府に尽さないか、判任官ならどうにかなる」と明治政府への出仕を促したのであります。逆賊とされた会津人に官職への道は閉ざされていたが、国家を担うべきは人であり、藩閥なぞ何ほどの値打ちもないという信念の谷は山川の俊才と気骨を見込み、その後の人生を切りひらいたのでした。そして4年後、山川がこの恩をかえすときがやってきました。明治10年の西南戦争であります。政府軍の征西別働第二旅団の参謀として出征することになった山川は、このとき有名な歌を詠(よ)んでおります。

 薩摩人(びと)みよや東(あずま)の丈夫(ますらお)が提(さ)げはく太刀の利(とき)か鈍(にぶ)きか

 戊辰戦争で血祭りにあげられ、その後も徹底的に屈辱をうけた会津人の恨みと復讐心の凄まじさが伝わる歌ですが、一方の陸軍少将・谷干城はこのとき、山県有朋からの強い要請で熊本鎮台総督として熊本城におりました。薩軍1万数千の兵力に熊本鎮台兵は3千。白兵戦では勝負にならず、堅牢をもって知られる熊本城に籠城するしかありませんでした。加えて籠城側の幹部には樺山資(すけ)紀(のり)中佐ら薩摩人がごろごろいるため、かれらにとっては神のごとき西郷に恭順して開城してしまうことを政府は怖れておりました。しかし土佐人の谷は西郷に批判的で、学問もあり、筋の通らぬことを嫌う硬骨と高潔には定評がありました。そこを山県は買いました。参謀長の樺山はのちに「谷将軍の人格によって部下のとり纏(まと)めがなされた」と言い、その私心のない統率力を高く評価しておりました。しかし厳しい戦いとなり、堅牢な熊本城とはいえ、兵3千に家族や県庁職員合わせて5千人が1万数千の精鋭西郷軍の猛攻に耐えねばなりませんでした。籠城して52日目、食糧や弾薬も底をつきはじめたころ、ついに敵陣をやぶって援軍が駆けつけました。それが征西別働第二旅団の山川隊でした。谷の恩義に報いるべく、まっさきに山川浩が救援に赴いたのであります。樺山中佐以下全員で山川を迎え、城内は沸きかえりました。そして山川は、右肩口を狙撃され病床にあった谷のもとにゆき劇的な再会をはたします。ふたりは感極まってしばらくの間じっと見つめ合ったといいます。

【谷 干城】

 明治13年、山川は陸軍歩兵大佐となり、総務局制規課長兼東京師範学校長を務めました。その翌月、東京高等師範学校長、東京女子高等師範学校長をも兼ねました。そして、明治19年には陸軍少将にのぼりつめます。このとき、長州出身の山形有朋が「かつて賊軍だった者を将官にするとはなにごとだ!」と激怒したと伝われております。

 そして、山川は、明治23年7月、第1回衆議院議員総選挙に旧会津藩領である福島4区から立候補したものの落選します。どうして、会津の地元で立候補し、なぜ落選したのかは謎です。一方、谷干城は陸軍を退役して第1次伊藤博文内閣の初代農商務大臣となるも政府の欧化政策を痛烈に非難し、大臣の椅子を蹴って辞任、のち貴族院議員となります。このとき偶然にも山川も貴族院議員となり、政府批判の直言居士として谷、曽我祐準とともに「貴族院の三将軍」と渾名(あだな)されたというから二人の友情、そして因縁はどこまでも深いのです。 山川浩は明治25年に男爵に叙せられ、明治31年に享年54歳で死去。この4年後、歌人でもあった山川の和歌集『さくら山集』が発刊されることになり、その「序」を書いてほしいという依頼が盟友、谷干城にくる。谷は「余はもとより和歌を知るにあらざる者といえど、しかるに君の人たるを知る。すなわち敢えて他人に譲らず、故に辞せずして、これを序す」として「山川浩君乃傳」という見事な漢詩を贈っております。その谷干城も、明治44年に75歳で波乱の人生を了(お)えました。

【山川 大蔵(浩)】

 山川大蔵は、会津藩の中では知将としてあまりにも有名ですが、戊辰戦争後の山川と谷の『男の友情』には深い感動を覚えました。

【記者 鹿目 哲生】

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