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ザ・戊辰研マガジン

Vol.5

今年はじめの東京散策

2018年03月06日 00:30 by hidamarikun
2018年03月06日 00:30 by hidamarikun

①上野 国立博物館

特別展 仁和寺と御室派のみほとけ
-天正と真言密教の名宝-
第一章 御室仁和寺の歴史 47点
第二章 修法の世界 52点
第三章 御室の宝蔵 39点
第四章 仁和寺の江戸再興と観音堂 13点
第五章 御室派のみほとけ 23点
世界遺産の真言宗御室派の総本山である仁和寺

1‥国宝 阿弥陀如来坐像
仁和4年(888年)仁和寺創建時の金堂本尊。一木造で像のかもしだす和らいだ雰囲気は、平安時代の彫刻が次第に和様式への道をたどる出発点の造形。また腹前で定印を結ぶ現存最古の阿弥陀像としても知られている。
現在は脇侍である勢至菩薩立像、観音菩薩立像とともに霊宝館に安置されている。

2‥国宝 孔雀明王像(仏画)
重層的な彩雲を背景に、明王が孔雀に坐した姿をあらわすこの像は、日本の例に多い一面四臂ではなく、三面六臂で描かれている。また寒色系や白色主体の色調は、平安仏画とは異なり清新で知的な印象を与え、さらに顔容描写などに見られる写実性のある表現や細部に至るまでの緻密な描写は、日本絵画の追随を許さない宋仏画の名品

3‥千手観音菩薩と二十八部衆と明王
二十八部衆とは、千手観音に仕える眷属(けんぞく)
降三世明王とは、(ごうざんぜ)密教特有の仏様で不動明王(大日如来)を守護する五大明王の一尊。
欲界・色界・無色界の三界にある三毒(貪/とん・瞋/じん・癡/ち)を降伏(ごうふく/力でねじ伏せる)する強い力を持った仏様
※明王種類
東:降三世明王(ごうざんぜみょうおう)
西:大威徳明王(だいいとくみょうおう)
南:軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)
北:金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)
不動明王とは、大日如来の化身(怒ったらこうなる)
煩悩が強い者や強悪者に対しては容赦ない…
写真は唯一撮影がOKな観音堂の仏像と案内板





2月後半に、大阪・葛井寺(ふじいでら)の千手観音がくるので再来場予定。
※宝蔵には、方丈記1巻と鳥獣戯画甲と丁巻あり


②吉原界隈散策

上野公園→4号(徒歩30分)→鷲(おおとり)神社→弁天池跡(10分)→吉原神社(5分)
1.鷲(おおとり)神社
御祭神 天日鷲命(あめのひわしのみこと)
日本武尊 (やまとたけるのみこと)
天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命(あめのうずめ)が、岩戸の前で舞われ、弦(げん)という楽器を司った神様がいた。天手力男命が天之岩戸をお開いた時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜ぶ。以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と称された。
天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地にお祀りされた。
後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをした。その日が十一月酉の日。この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」
【鷲神社HP引用】





2.吉原神社
吉原神社は、吉原遊郭にお祀りされていた五つの稲荷神社と遊郭に隣接する吉原弁財天を合祀した神社。
※五つの稲荷神社とは玄徳(よしとく)稲荷社、明石(あかし)稲荷社、開運(かいうん)稲荷社、榎本(えのもと)稲荷社、九郎助(くろすけ)稲荷社の五社
御祭神
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
五穀豊穣の神様
お稲荷さんと呼ばれて親しまれています。もともと「稲荷」とは「稲が成る」つまり稲の生育を意味し、古くから家内安全・商売繁盛の神様として信仰されています。さらに当社の倉稲魂命はかつて吉原遊郭の遊女等による信仰を集めたことから現在でも女性の様々な願いを叶えてくださることで知られている。
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
吉原弁財天の御祭神
開運・財運・芸能上達などの恵みを与える神様
吉原遊郭の遊女等による信仰を集めたことから現在でも女性の様々な願いを叶えてくださることで知られている。
【吉原神社HP引用】




③吉原界隈
吉原とは?
→江戸時代に江戸郊外に作られた、公許の遊女屋が集まる遊廓(吉原遊廓)、およびその地域の名。
→1617年に日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生した
→明暦の大火(1657年)により吉原遊廓焼失
→明治36年頃には3尺(約90cm)程の堀が巡らされた。外界から隔絶されていたという。
→遊女には花魁(おいらん)・新造・禿(かむろ)などの身分
店にも茶屋を通さないと上がれない格式ある総籬(そうまがき:大店)から、路地裏にある小店までの序列あり。
※今がその名残で、喫茶店(案内所)がある。跡地を横断すればいたるところにある。
説明はこれくらいにして…





1.吉原弁天池跡(吉原神社から数分)
1923年(大正12年)関東大震災に伴う火災で逃げ遅れた遊女らが、弁天池に飛び込み490名の犠牲者を出す(溺死)という悲劇に見舞われた。戦後ほとんどは埋め立てられたが、現在も関東大震災の犠牲者を悼む観音像が残る。(共同墓地みたいな感じ…その白黒写真はあったが酷いので撮影しなかった。)
※行けばわかるが、空気が違う…ひんやりというかなんというか…



2.浄閑寺(投げ込み寺)
吉原では身寄りのない遊女が亡くなると人目を避けて密かにこちらに運び込まれ、供養など一切されずに葬られました。(=無縁仏)
「心中」「枕荒らし(客の財布を盗む)」「起請文乱発(お気に入りの客に手紙を出す)」「足抜け(脱走)」等々吉原の掟を破った遊女の場合は、遺体が素裸にされ荒菰に包まれた状態で文字通り「投げ込まれた」。
※荒菰(あらごも)とは、す巻き又は筵(むしろ)で巻くだけのこと。
遊郭としての吉原は昭和33年4月1日の売春防止法施行まで存続。
当地で江戸・明治・大正・昭和と301年続いたことになる。
関東大震災で亡くなった数も含めて約25000名の遊女がここに眠っているという。



※生々しく骨壺がみえるらしいけど…見たくはないかな…
人として扱われないってなんだか悲しいなぁ。
(記者:酒井)

 

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