ザ・戊辰研マガジン

Vol.5

幕末人物終焉の地(4)

2018年03月06日 20:57 by norippe

[奥羽鎮撫総督府下参謀 世良修蔵の最期]

 戊辰戦争が勃発したきっかけのひとつである世良修造の暗殺事件、その暗殺現場である福島の地を探ってみた。


長州藩士 世良修蔵

 福島県の中央を南北に流れる一級河川の阿武隈川、那須連山から湧き出る水を水源とし、白河や須賀川、郡山、二本松、福島を経由して宮城県亘理町の太平洋岸へと流れ出ている。私の生まれ育った須賀川では市の東部を流れ、松尾芭蕉の句でも詠われた乙字ヶ滝が川の流れを味わい深くしている。
 福島市では国道4号線と寄りそうように、たっぷりの水がゆったりと流れている。国道4号線を南から福島市内に入って来ると、阿武隈川に架かる大きな橋があり、この橋を大仏橋と言う。その大仏橋から西方向に目を向けると、すぐそこには福島県庁が見える。福島城があった場所である。大仏橋を渡るとすぐに大きな三差路の舟場町交差点があり、これを左に曲がると国道13号線、JR福島駅も間近である。この舟場町交差点を北へまっすぐ100m程行ったところの交差点左側に北町という場所がある。この北町が今回の話の人物、世良修蔵の暗殺現場なのである。
 そして、その暗殺現場から東に行った舟場町の阿武隈川の河岸で、世良修蔵は斬首処刑されたのである。

 ここで世良修蔵が暗殺されるまでの経緯を話さなければならない。
 鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は江戸に多くの兵を向け、東北地方の鎮無のため、世良が奥羽鎮撫総督府下参謀として任命されたのである。これは江戸城が開城する前で、江戸には大勢の幕府軍がいるため、新政府軍は多くの兵を江戸に残さなければならなかった。そんなわけで、奥羽を鎮撫するにもわずか570名という兵力で行かざるを得ないのが実情であった。東北には強大な仙台藩や米沢藩、そして会津藩がいるにもかかわらず、少ない兵力で鎮無にあたるというのは通常では考え難い。しかし、これには新政府の思惑があったのだ。
 「奥羽諸藩の鎮撫に関しては、奥羽諸藩の兵力を使って処置する」
 奥羽鎮撫の大きな目的である会津藩征討を奥羽諸藩の要でもある仙台藩に実行させるといった考えであった。新政府が仙台藩に下した勅命文には「仙台藩から会津藩を攻めたいという願い出があったので、それを許可する」とあったそうだ。それに対して仙台藩は「このような願いを出した事実はない」と言ったところ、この仙台藩の主張が通り「仙台藩一手」という言葉が削除された。
 当初、奥羽鎮撫の参謀には薩摩藩士の黒田清隆、長州藩士の品川弥二郎が任命されたのだが、「奥羽諸藩の鎮撫に関しては、奥羽諸藩の兵力を使って処置する」という策は非常に困難であるという思いがあり、この任命を辞退したのである。変わって就任したのが世良修蔵と薩摩藩士の大山格之助であった。そして、九条道孝を総督とした奥羽鎮撫総督府は、弱い兵力のまま東北の地に向かったのである。下参謀の世良は「我らは朝廷から派遣された官軍である」ということを全面に打ち出し、大威張りで奥羽諸藩に接したのである。

 奥羽諸藩は会津を救済する為、羽州街道七ヶ宿で会議を開いた。関宿本陣・渡辺丁七邸の会場に、仙台藩、米沢藩、二本松藩、相馬藩、そして会津藩の家老たちが集い知恵を出し合った。
その後、仙台藩家老の但木土佐は白石列藩会議といわれる拡大会議を開いた。そこで会津にある程度の犠牲を了諾してもらうという内容を含めた「会津藩寛典処分嘆願書」を作成したのである。そして岩沼に宿陣している奥羽鎮撫総督府九条道孝総督に嘆願書を届け、これで一件落着かと思ったのであるが、そう簡単に事は運ばなかった。九条道孝総督はいわば名ばかりの総督で、鎮撫総督府のなかで実権を握っていたのは強硬派下参謀世良修蔵であったのだ。そして奥羽諸藩の平和への願いをこめた嘆願書は無慈悲にも拒絶されたのである。
 世良修蔵は嘆願書を却下し、仙台藩に再度会津を討伐するよう命を下したのである。世良修蔵にとって会津は憎き敵であり、許すつもりは毛頭なく強権な態度を崩さなかった。世良修蔵の存在が事態を悪化させているとみた仙台藩内部では「もはや世良を生かしておくことは出来ない!」と密かに暗殺計画を立てたのである。

世良襲撃のために選ばれたのは以下の人物。
(仙台藩士)
瀬上隊軍監・姉歯武之進、大槻定之進
瀬上隊書記・岩崎秀三郎
瀬上隊監察・小嶋勇記
参政書記・松川豊之進、末永縫殿之允
投機隊・田辺覧吉、赤坂幸太夫
(福島藩士)
用人・鈴木六太郎
目付・遠藤条之助
番頭・杉沢覚右衛門
また、浅草宇一郎という目明しが、世良襲撃に手を貸すことになる。

 慶応4(1868)年閏4月19日の午後三時頃。早駕籠に乗って福島城下に入った世良は、定宿としていた「金沢屋」に投宿し、いつもの奥座敷に落ち着くと、当時秋田の新庄にいた下参謀の大山格之助宛てに一通の手紙を書いたのである。この一通の手紙が、世良が暗殺される決定打となった「密書」であった。
 密書を書き終えた世良は、ここで福島藩の軍事掛を務めていた鈴木六太郎を呼び出し「この密書を極秘で秋田新庄にいる大山下参謀に届ける手はずを取ってくれ。仙台人には絶対にわからぬようにだ。」といって渡した。
 世良から密書を送りたいとの依頼を受けた鈴木六太郎以下の三人の福島藩士達は、その足で福島藩家老の斎藤十太夫の屋敷に向かった。鈴木らから話を聞いた斎藤は、ここで苦渋の選択を迫られ、当時の福島藩は新政府側に好意を持ってはいながらも、東北の盟主的な存在である仙台藩の意向を無視して事を進めることは出来なかった状況にあった。鈴木から事情を聞かされた家老の斎藤は、「仙台藩の意向をはかれ」と命じ、鈴木らは、当時世良暗殺を企てていた仙台藩士・瀬上主膳が定宿としていた城下で鰻料理屋を営んでいた「客自軒」に走ったのである。
 実は、この瀬上の定宿であった「客自軒」は、「金沢屋」と通りを隔てた斜め向かいに位置しており、ほんの目と鼻の先という位置にあった。
 客自軒にいた瀬上は、鈴木六太郎から密書を受け取り、そして、世良の密書を開けて見たところ、その密書には奥羽諸藩にとっては非常に忌々しきことが書き連ねられていたのだ。特に、『奥羽皆敵』という世良の言葉に、瀬上主膳以下の仙台藩士らは激怒し、ここで世良の暗殺計画は確実なものとなったのである。
 瀬上の元に、世良が翌朝の午前六時に出発するので人夫を差し出すようにと命令したとの情報が届き、ここで瀬上は大きな決断を下した。「この上は白石の本営の指示を待つまでもない」と世良の暗殺を決断し、客自軒において、世良襲撃のための計画を練り始めたのだ。
 まず、金沢屋の表口を仙台藩士の松川豊之進と末永縫殿之允、裏口を大槻定之進と岩崎秀三郎、庭先を浅草宇一郎の子分らが固め、世良を取り逃がすことの無いように万全の態勢を組んだ。また、世良の寝所を実際に襲う行動隊には、鈴木六太郎以下の三人の福島藩士も含まれていた。世良の寝所は、金沢屋の北に建てられていた土蔵作りの屋敷の二階、奥座敷の八畳の部屋である。その日の夜の世良は、密書を福島藩士に渡し終えると、翌日早朝の出発に備えて、完全に深い眠りに入っていたのだ。
 まず仙台藩士・姉歯武之進が、浅草宇一郎を使って金沢屋の主人である斎藤浅之助を呼び出し、世良と一緒に寝ていた遊女を「急用がある」と言って呼び戻すように命令をした。女はソッと床を抜け出て、長襦袢の上へ細帯をしめ、落ちていたかんざしを拾い、世良の寝顔を一瞥して去ろうとした時、赤坂と遠藤が雷のように飛び込んで来たのだ。

 世良は異変に気付いて起き上がり、一緒に寝ていた遊女の名を叫び、ピストルを取り出し、引き金を引くのであるが不発に終わってしまった。世良は必死に応戦したが、当然寝込みを襲われているので、思うままに抵抗することは出来ない。何とか窮地を脱し、二階から一階の庭へ飛び降りたのだが、庭にあった切石に頭部を打ちつけ、かなりの傷を負ったのである。
 その頃世良と同じく金沢屋に宿泊していた同じ長州藩士の勝見善太郎もまた、仙台藩士らの手によって捕縛されていたのだ。この勝見も二階から飛び降りたところを捕らえられた。世良と勝見は仙台藩士らの手によって捕縛され、金沢屋の裏口から引きずり出されて、瀬上の宿所であった客自軒へと連れて行かれた。世良と勝見は客自軒の庭に引き出され、そこで尋問を受けたのだが、世良の流血が激しく、尋問に答えるのも難しい状態だった。世良を白石の本営に運び尋問しようという話も出たが、この状態では無理だろうということで、このまま処刑する事を決断したのである。
 世良と勝見を、仙台藩軍事局の置かれていた長楽寺の裏を流れる阿武隈川の川端に連れて行き、そこで首を刎ねたのである。


世良修蔵が処刑された阿武隈川の河原

 斬られた世良の首は、すぐに白石の本営へと送られた。胴体はそのまま河原に埋められたのだが、その後の洪水などで跡形もなく流されてしまったのである。首を受け取った但木土佐は「罪人の首級など見たくもない。子捨川にでも投げ捨てろ」と叫び、また玉虫左太夫は「その首に小便をかけてやる」と興奮して言ったのである。玉虫は世良に対しては相当の憎しみを持っていたのだ。
 世良修蔵が福島で処刑された三日後の慶応4(1868)年閏4月23日、奥羽地方の25藩が白石において「白石盟約書」に調印し、そして5月3日には「奥羽列藩盟約書」が調印され、ここに「奥羽列藩同盟」が結成されたのである。

 世良修蔵の暗殺現場から数百メートル北西に行ったところに「福島稲荷神社」がある。この神社の境内の一角に「世良修蔵霊神碑」という墓が建てられている。「世良修蔵の墓」ということになるが、この墓の中には世良の遺骨は入っておらず、慰霊碑的要素の墓である。世良の墓は宮城県白石市の陣場山に建てられているのだ。


白石陣場山にある世良の墓

 陣場山の世良の墓地には中央右に世良修蔵、中央左に同藩士勝見善太郎、松野儀助、従者繁蔵の墓石が建っている。更に右側には木戸孝允が建立した灯篭、左に磐前県令建立の灯篭が建っている。
 蛇足ではあるが、明治4年(1871年)11月2日 - 第1次府県統合により、中村県・磐城平県・湯長谷県・泉県・三春県・棚倉県が合併され、平県が設置された。県庁は磐前郡磐城平に設置されたが、この時に磐城平は略称の一つである「平」に改名された。
 明治4年11月29日(新暦1872年1月9日) - 磐前県に改名された。
 明治9年(1876年)4月22日 - 刈田郡・伊具郡・亘理郡および宇多郡のうち9か村(現:新地町域)が、宮城県から磐前県に入れ替えられた。
 この世良の墓が建立されたとき、この地は宮城県ではなく、磐前県であったのだ。
 磐前県というと、私は福島県の浜通りだけかと思っていたが、この当時は宮城県の一部である刈田・伊具・亘理も磐前県、いわゆる福島の一部であったことに驚かされた。
 明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により、磐前県は廃止された。刈田・伊具・亘理の三郡は宮城県に復帰し、残りは福島県(中通り)や若松県(会津地方)と合併され、現在の福島県に入れられた。
 結局、この刈田・伊具・亘理が磐前県に属したのは、たったの3ヶ月あまりだったのだ。

 話は世良の暗殺の地に戻すが、世良が定宿とした旅籠「金沢屋」は、現在は日産自動車販売店のビルが建ち、世良を捕縛して尋問をした「客自軒」は「もみじガレージ」という名前の駐車場になっている。「客自軒」がその後「紅葉屋」と名前を変えたことから、間違いなくここに「客自軒」があったことが伺える。
 また、近くにある「明治病院」は旅籠「浅草屋」があった場所で、この「浅草屋」は世良の襲撃に加担した浅草宇一郎の営む旅籠であった。
 「金沢屋」「客自軒」「浅草屋」と、世良暗殺にかかわった宿がたったの数十メートルしか離れていない場所にあったのだ。今は当時の面影はまったく無い。


世良修蔵暗殺事件現場の地図


右の日産自動車のある場所が「金沢屋」があった場所
左の明治病院のある場所が「浅草屋」があった場所
その間の奥に「客自軒」があった


「客自軒」があった場所


左手前の「金沢屋」から右奥の「客自軒」まで、この道を通って
世良修蔵は連れて行かれたと思われる

 浅草宇一郎が経営していた「浅草屋」には、明治9(1876)年6月に実施された明治天皇の東北巡幸の際、明治天皇に付き従って福島にやって来た明治政府の参議・木戸孝允が宿泊しているのだ。この場所が同じ長州藩士の世良修蔵が命を落とした場所であることは、当然、木戸は知っていたであろう。その心境はいかがなものだっただろうか。
 木戸は宮城県白石市の陣場山にある世良の墓にも行っている。その墓の右側に木戸が献じた石灯籠が建っているのだ。

 世良の死によって日本が大きく動いたのは間違いないが、もし世良が柔軟な態度で事を運んだとしたら、この日本はどんな世の中になっていたのだろうか?
 そんな事を考えると、歴史はたった一人の行動で大きく変わるものだと痛切に感ずる次第である。

(記者:関根)

次回は会津藩士の「神保修理」の予定です。



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