ザ・戊辰研マガジン

Vol.5

戊辰戦争研究会アルバム

2018年02月12日 11:01 by date

 日本のナイチンゲール「瓜生 岩子」 東京・浅草「新奥山」

 私たち戊辰戦争研究会は先の1月に「浅草初詣集会」と銘打った新年会を開いた。東京の名所のひとつ浅草から墨田川・今戸神社・待乳山聖天、そして浅草神社・浅草寺を歩いた。
浅草寺の西側には「新奥山」という一角があった、かつてここは「奥山」という一帯で芝居小屋や見世物屋が並んでいた、今ではその名残は大衆演劇「木馬館」のみにとどまっている。
その「新奥山」の入り口(入り方によっては出口)に鎮座しているのが「瓜生岩子」の座像である。
 当日の浅草集会に参加したメンバー全員で「瓜生岩子像」を背景に集合写真を撮ったが、だれも瓜生岩子の生涯を知らず、だれも説明できなかった。ただ会津出身であることだけはわかっていたのだが・・・。

 瓜生岩子は文政12年(1829年)に福島県の今の喜多方市に生まれた、幼少時には裕福な商家で育ったが、成長するにつれ不幸が起き次第に没落してゆくのであったが、尼さんになろうとした岩子に地元の和尚は、「もっとつらい人がいるので助けなさい」と諭され、福祉事業を始めるのであった。
 戊辰戦争時には傷ついた人々を敵味方区別なく救済し、その戦後は私財を投じて貧しい子供たちの救済に力を入れ、明治2年には地元に「小田付幼学校」を設立し、養蚕・機織りなどの殖産教育を起こした。しかし明治5年に明治政府は小学校令を発令し幼児教育に乗り出したために小田付幼学校を閉鎖した。その後は上京し貧民救済事業を始め、特に堕胎防止を訴えた。
 明治24年には第一回帝国議会に初めて請願書を提出し、時の実業家渋沢栄一の後押しの元に東京養育園の幼童世話掛長の職に就いた。
日清戦争時には東京・下谷に移り戦時食品の普及に努め、全国に無料診療所を計画した、この時分に後藤新平と出会時分った、また三陸津波時にも救済活動を行いバザーや募金活動も行っている。
 明治29年に女性初の藍綬褒賞を受けた。
 しかし明治30年に69歳で過労のために亡くなるのである。

 亡くなる2日前の和歌である。
「老いの身ながらざいし 命をも助けたまえる慈悲の深さよ」

明治34年に彫刻家の大熊氏広により座像が作られ、その建設委員長には渋沢栄一が就き、開幕式には渋沢栄一が祝辞を読んだという。(瓜生岩子の像は、全国7か所にあるそうです)
 設置場所として浅草寺が選ばれた理由は、浅草は貧民が多く人の集まる場所だったということです。浅草寺の瓜生岩子像は、どこにでも居そうな優しいおばぁちゃんの像であるが、この優しそうな姿こそに、貧しい人を救うという社会福祉の思いが瓜生岩子像にギュッと詰まっているのではないだろうか。

 記者 伊藤 剛

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