ザ・戊辰研マガジン

Vol.5

鈴木久孝・光子

2018年03月03日 15:23 by tange

 私の曾祖母・鈴木光子は、明治6年(1873)10月、艱難辛苦の三年を過ごした斗南(現むつ市)から会津若松へ帰還する。13歳の時だった。
 光子は、青森県初代大参事・野田豁通から東京での修学を勧められるが親族の反対で叶わず、母・美和子、伯母・政子とともに会津若松で暮らしていた。そして、11年の夏、18歳の光子は政子の長男・久孝と結婚する。久孝を美和子の養子とし、夫婦となった。
 会津戊辰戦争に12歳で遭遇した彼は、斗南へ移住した家族と離れ会津若松にひとり留まっていたが、進駐した新政府軍の横暴な振る舞いから身を守るため、縁を頼って会津柳津の円蔵寺で仏門修行に入る。
 円蔵寺は、只見川の岸辺、切り立つ崖の頂に本堂が在る臨済宗(妙心寺派)の古刹である。


       会津柳津、円蔵寺・本堂(菊光堂)

 しかし久孝は、どうしても仏門修行に馴染めず、明治9年、寺を逃げ出し越後へ向かい新潟英語学校に入学する。そこでの二年間の学業を終えた夏、光子と結婚したのだ。
 同校は我国初の英語学校で、7年に創設されている。彼がここで英語を修学したのは、開国し近代化途上の日本でそれが必須と考えていたからであろう。
 12年、久孝は新潟県の奨学金を得て東京商法講習所に入学、夫婦は上京する。
 やはり初の商業学校である東京商法講習所は、後に文部大臣を務める森有礼らによって、8年に京橋区尾張町2丁目(現、中央区銀座6丁目)の鯛味噌屋二階に開設された。そこは最近オープンした巨大な商業施設GINZA SIXの片隅である。ただし久孝の入学時には、同木挽町10丁目で現在の新橋演舞場近くに、広い芝庭を前に白亜の校舎が完成していた。
 この商法講習所は、東京高等商業学校を経て、一橋大学となる。GINZA SIX前の歩道植込みのなかに小さな石碑が立っている。歩道側に‘商法講習所’と刻まれ、車道側は‘一橋大学発祥の地’の碑となっている。


    東京商法講習所・一橋大学発祥の地、石碑

 新潟で英語を、東京で商法をそれぞれ学んだ久孝は、時代の最先端だった海外との交易を志す。明治14年4月、 横浜境町1丁目で現在の日本銀行横浜支店辺りに本店を構えた商社・扶桑商会に職を得て、前途洋々の人生を歩きはじめる。12歳で遭遇した会津戊辰戦争敗北からの夢のような展開に、本人もびっくりしていたに違いない。
 関内から湊橋を渡った直ぐの不老町に大きな屋敷を借り、養母、妻そして息子と安寧な暮らしを始めた久孝には、この後の短い年月に不遇のなか病に倒れ滋賀県大津町で最期を迎えることになるなど、知る由もなかった。


扶桑商会の跡地、日本銀行横浜支店辺り(横浜関内、日本大通り)

 扶桑商会は、明治18年7月、生糸の暴落から大打撃を受け破産する。そのため久孝は、同年9月、共同運輸へ転職する。この共同運輸は大隈重信の主唱によって岩崎弥太郎の三菱汽船に対抗して設立された海運会社だったが、大隈の下野が長引くなか、岩崎が新たに興した日本郵船に吸収合併される。久孝は、18年12月、日本郵船横浜支店手代の辞令を受け、21年2月まで同社に勤める。その間、被合併会社では中々自分の力が発揮できず悩み、身体にも支障をきたすようになる。21年8月、青森で光子が世話になった野田豁通の斡旋で日本鉄道会社に入社する。そして曽祖父母一家は、横浜から東京本郷へ転居する。
 過去に光子は、野田の修学の勧めと援助の申し出を鈴木側の一方的な理由で断っている。それにもかかわらず野田は、就職を世話し本郷の自分の屋敷内に住まいを与えた。野田の寛容な心に大変驚くとともに、明治人の高い品格に感動すら覚えるのである。
 関東大震災復興院の総裁となる後藤新平や昭和の初め首相となる斉藤実なども、東北の寒村、水沢で、少年時代に野田の薫陶を受けている。
 日本鉄道会社は私設鉄道として最初の大会社であったが、薩摩、長州、肥後の三藩出身者がその要路を占めるという典型的な藩閥経営で、久孝の活躍の場は限られ病も進行していった。24年4月、同社を退職し大津へ向い、滋賀県商業学校の教諭となる。

 曽祖父の生涯は、学業を終えた14年から世を去る24年まで、明治近代化の波に翻弄され目まぐるしく変遷し、交易を志した初心とは異なった方へと向かうのである。それは、彼が朝敵とされた会津藩出身者だったせいか?いや、違うと思う。山川健次郎、山川捨松、井深梶之助、柴五郎、芳賀栄次郎など会津藩出身の若き人たちが、たくましく新しい時代を切り開いている。彼の場合、個人の資質に問題があったと承知すべきなのであろう。自分の思いとは逆に挫折を繰り返し、横浜時代から酒におぼれ健康を損ない、肺の病で最期を迎えた。
 終焉の地、大津市旧神出の辺りで、琵琶湖から取水し京都まで流れる疏水が三井寺・長等山の下を貫いている。彼も、この地に来る前年に完成していた最先端の土木施設を見ていたに違いない。しかも、それを完成させたのが京都府御用掛・田辺朔郎、弱冠29歳と知り、驚愕する。
 曽祖父は、疏水の流れを眺め、自分がこれまでに何も成し遂げていないことに気付いたのではないか。その焦燥感や敗北感が彼の病をさらに重くしていった。24年9月22日、永眠。享年35。


 大津市旧神出辺りで長等山を貫く京都疏水

 その最期の枕辺に駆けつけ引導を渡したのは、何と、久孝が出奔した時の円蔵寺住職、沖津忠室師だった。師はその時、大津から遠くない京都の妙心寺(臨済宗妙心寺派大本山)住職に就いていたのだ。一度は師を裏切った久孝だったが、その師に看取られ旅立った―。  (鈴木 晋)


(次号からは都内の幕末維新に縁ある史跡についてです。第一回は、東京白金の興禅寺)


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