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2022年11月号 vol.61

【史跡を巡る小さな旅・三】高輪ゲートウェイ駅、東禅寺、泉岳寺

2022年11月04日 17:20 by tange
2022年11月04日 17:20 by tange

【史跡を巡る小さな旅・三】高輪ゲートウェイ駅、東禅寺、泉岳寺

 令和2年3月、山手線の三十番目の駅として高輪ゲートウェイ駅が開業した。
この春、開業二年目の駅に降り立った。売れっ子の建築家・隈研吾氏設計の駅舎は当初、自然木材が多用され安らぎが得られるなどの評判が飛び交った。しかしこの駅舎は、そもそも鉄骨構造の建築物で、アクロバチックに組まれた鉄骨ばかりが目立ち、そこに仕上げとして福島産の杉板が少し張られているだけなのだ。持てはやされた膜構造の屋根も、過去に万国博などで目にしていたので新しさを感じない。ホームでの乗降の人ごみの中、安らぎなど少しも覚えなかった。
 駅の周辺では現在、使われなくなった広大な線路敷きを利用し、大規模な再開発工事が進行中だ。それに際して、明治5年に新橋から横浜間に開通した日本初の鉄道の一部が出土した。海の上に鉄路を敷設するために築かれた高輪築堤の跡である。近代化遺産の保護を重視する最近の流れからも意義深い発見だった。JR東日本は開発計画の一部を変更し、特に重要な約120メートルの現地保存を決める。3年9月、それは国の史跡に指定された。
 私は、本誌3年1月号に「鉄道開業と新橋停車場」を投稿し、高輪築堤について少し触れていたので、その決定を好ましく受け取った。


高輪ゲートウェイ駅
 
 工事現場の脇を抜け、第一京浜国道を渡ると桂坂下である。古地図によれば桂坂が東禅寺の参道だったようだが、これを上がると山門まで複雑な経路になるので避けた方が良い。国道を品川駅方面へ少し行き、最初の歩道橋手前の道を右に折れる。やや遠く道の突き当たりに、山門が見えている。
 臨済宗妙心寺派に属する東禅寺は、安政6年(1859)に最初の英国公使館が置かれた場所である。山門を抜け、両側を背の高い緑に覆われた小道を行き、都会の喧騒が消える辺りで樹木の向こうに三重塔が見えてくる。塔の右側に「海上禅林」の額を掲げた本堂がある。都心近くの寺としては、珍しく緑にあふれる境内だ。
 公使館だった時、ここを英国人写真家ベアトが撮影していた。彼が東の方を撮った一枚を、本堂玄関脇の展示ケースの中に見つけた。今では埋め立てが進み、ここから前方に海など見ることはできないが、ベアトの写真は下方に広がる江戸湾の美しい景色を捉えていた。それが「海上禅林」の由来かと独り合点した。
 東禅寺は、安政6年6月に初代英国公使ラザフォード・オールコックが着任した後、慶応元年(1865)6月まで公使館として使われ、その間、幕末の騒擾に巻き込まれる。文久元年(1861)5月に尊王攘夷派の水戸藩浪士が、翌2年5月には松本藩士が寺を襲撃したのだ。オールコックは、それらの事件について、自著「大君の都」に詳しく書き残した。
 公使館員の宿所となった僊源亭(せんげんてい)と庭園は、昔のままに保存されているが、公開されていない。
 門前に立つ東京都教育委員会の説明板によると、東禅寺は、米、仏、蘭などの公使館だった寺院が大きく改変されたなかで、幕末期の姿を伝える唯一の寺院であることから、平成22年2月22日と2並びの日に国指定の史跡となった。


東禅寺・山門(奥に緑あふれる小道が見えている)

 東禅宗から迷路のような裏道を行き、泉岳寺に至る。主君の無念を晴らした赤穂四十七士の墓があることで有名な曹洞宗の寺院だ。吉良邸討ち入りの日、12月14日の義士祭には、今でも香華の絶えない寺である。
 義士の墓ばかりに気をとられていた泉岳寺だったが、伽藍配置が素晴らしいことに気がついた。中門、山門、本堂を結ぶ一直線が基本軸となり、それに直交、平行する軸上に講堂、庫裏などが配され、自然傾斜の地を造成した義士の墓地(国指定史跡)も、それらの軸線による碁盤目の上にきちんと置かれている。都心の狭い敷地での伽藍では無理やりの配置が多いが、ここは優れた都市計画のモデルのようだ。


浅野内匠頭の妻・阿久里(瑤泉院)の墓(泉岳寺浅野家墓地内)

 泉岳寺山門近くの高輪学園正門から始まる道は、この日一番の迷路だった。幅員1・2mほどの狭い道は上り坂で、何度か直角に折れている。行き止まりかと歩みを止めると、近所の人が後ろから「大丈夫、ずっと上まで行けますよ」と声を掛けてくれた。上へ上へと進むと、両側にかなりの数の住宅が建ち、道幅も広くなる。80mほど歩き、やっと広い道の二本榎通りに出た。
 二本榎通りを少し下ると、高輪皇族邸の御門がある。旧高松宮邸で、令和2年3月から本年4月まで、上皇、上皇后両陛下の仙洞仮御所となっていた。
 さらに二本榎通りの坂を下り、右折して伊皿子坂の急坂を一気に下れば、小さな旅の終着、高輪ゲートウェイ駅へ帰り着くのである。

鈴木晋(丹下)


次号、「細川藩高輪屋敷(大石良雄切腹の場、旧高松宮邸)」

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