バックナンバー(もっと見る)

2024年春季号 vol.5

今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…

ザ・戊辰研マガジン

2022年11月号 vol.61

善龍寺~西郷頼母と妻千重子を偲ぶ

2022年10月14日 12:26 by tetsuo-kanome
2022年10月14日 12:26 by tetsuo-kanome

 会津若松市の善龍寺は、保科家の元祖・保科正則の位牌があり、保科家の菩提寺として発展してきた寺院。戊辰戦争の際、本堂は焼けてしまいましたが、寛政9(1797)年に建造されたといわれる山門は戦火をまぬがれ、今もなお当時の面影を残しています。内部には西国三十三観音が安置されていて、「竜宮門(竜宮造り)」と呼ばれる会津地方では珍しい様式を採用。善龍寺のシンボルとして、多くの人たちに親しまれています。善龍寺は、会津における曹洞宗の「僧録寺」となっていました。僧録とは、一宗の寺院・儀式、あるいは人事なども司り、僧事を記録する僧職のことです。慶安2(1649)に、「僧録寺」である恵倫寺・天寧寺とならんで善龍寺が僧録寺となったのは、信州以来の寺院として、藩公から特に敬意を払われていたためといわれています。会津の人々に深く信仰されていたお寺。その境内には、会津藩家老・西郷頼母や妻・千重子、頼母の母など西郷一族21人を祀った「二十一人の墓」や会津戦争で戦死した会津藩士の遺体の埋葬に尽力した伴百悦の墓、明治期の外交官・赤羽四郎の墓など、多くの会津藩士のお墓があります。ほかにも「奈与竹の碑」が有名です。これは会津藩家老・西郷頼母の妻・千重子の辞世の句「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」から名づけられたもので、これは、か弱い婦女子の心を曲がらぬ竹の節になぞらえ、会津女子の精神の強さを歌い上げたものです。この碑は戊辰戦争終結から60年目に当たる、同じ戊辰の年の昭和3(1928)年に建てられ、碑の裏には、戊辰戦争で亡くなった233名の会津藩の婦人名が刻まれています。また、毎年5月には「奈与竹碑前祭」も行われています。

【会津藩家老西郷頼母の妻千重子の辞世の句“なよたけの風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ”】

【西郷頼母の妻千重子】

【西郷頼母】

【西郷頼母と千重子の墓】

【西郷邸で自決した「二十一人の墓」】

  慶応4年(1868)8月23日朝、西軍が鶴ヶ城下に突入した時、西郷邸で頼母の妻千重子を始め家族の全女子9人と親戚12人の西郷一族21人が集団自刃しました。

 私は初めて善龍寺を訪れました。西郷頼母と妻千重子の墓と西郷一族二十一人の墓では、供養して参りました。会津藩祖の保科正之公の菩提寺だけのことはあって、静寂の中に凛とした雰囲気が素晴らしいお寺で感銘を受けました。西郷頼母の妻千重子の辞世の句“なよたけの風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ”は、あまりにも有名な句ですが、改めて善龍寺で目の前で拝読すると、戊辰戦争の無念さが伝わって参りました。

【記者 鹿目 哲生】

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)

2024年春季号 vol.5

今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…