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2022年11月号 vol.61

十津川郷士⑫(御守衛春秋・禁門の変)

2022年10月24日 15:49 by tama1
2022年10月24日 15:49 by tama1

 この頃の長州藩は、失脚後、失地回復をめざして様々な策略を展開しています。 その一つが肥後の宮部鼎蔵、土佐の北副佶磨ら諸国の激派志士と結んだ天皇奪取計画 です。烈風の夜を選んで京の各所に火を放ち、御所に乱入して天皇を連れ出し、長州に動座を願う。さらには余力をもって中川宮と守護職の松平容保を斬るというもので、玉(天皇)を握って形勢を一気に逆転させようと図ったものでした。 ところが、この計画は土壇場になって挫折してしまいます。

 首謀者の宮部鼎蔵ら二十数人が、元治元年六月五日夜、最終的な打ち合わせをするべく三条小橋の旅館「池田屋」に集まった所を新選組が探知し、現場に踏み込んで宮部ら六人を斬殺、二十六人を逮捕した。いわゆる「池田屋事件」ですね。

 長州藩はこの計画を背後から操り、天皇動座に備えて、迎えの太兵を大坂へ送る手筈までしていたが、やむなく計画を修正、用意した大兵を大坂から京へ向かわせ、京を包囲して朝廷を脅し、七卿、藩主父子の免罪と入京許可を勝ち取る作戦に出た。 これが「禁門の変」の発端になったと言われています。

 長州の大軍は六月下旬から数組に分かれて上京。家老福原越後の兵三百は伏見の藩邸 に、家老国司信濃の兵三百と来島又兵衛の遊撃隊四百は嵯峨の天龍寺に、家老益田右衛門介の兵六百は男山八幡に、そして久坂玄瑞と久留米の神官真木和泉が率いる清側義軍約三百は男山の対岸山崎・天王山に布陣しています。 この清側義軍(せいそくぎぐん)は藩の非正規兵と諸国の志士との混成隊で、非正規兵は久坂玄瑞が、志士の方は真木和泉が指揮をとっています。

 長州側は三方から御所を威圧する一方で、久坂玄瑞、真木和泉、入江九一ら論客が、 八・一八政変以来、御政道を乱している君側の奸(松平容保)を排除し、正しい尊王攘夷の道に戻って叡慮を安んじ奉らねばならぬ、といった旨の長文の陳情書や建白書を、連日朝廷に秦呈して、若い公卿らの心理かく乱を図っています。 朝廷では禁裏守衛総督の一橋慶喜が、長州側に対し、七月十七日までに撤兵せよ、と 命じたが、長州側がこれを無視したため十六日の朝議でついに討伐を決定しています。

 また、長州側でも翌十七日、男山八幡の益田右衛門介陣所で最後の軍議を開き、戦闘 突入を決めています。来島、久坂、真木三人のうち、久坂は慎重論を唱えたが、来島、真木の二人が強硬論を主張、開戦に至っています。

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