私は、9/30~10/1の一泊二日で会津若松市を訪問しました。亡き母のお墓参りと、親しい親戚宅へのご挨拶、菩提寺のお彼岸の法要のために会津若松市を訪問しました。二日間とも快晴の会津若松市で、これまで行ったことがない遺構の地を巡って参りました。
【長命寺】
京都本願寺の直轄寺院である長命寺には、 五本の白線が入った、有名な土塀があります。これは、「五條(ごじょう)の築地塀」といい、最高の寺格を表します。しかし、有名なのは、それだけが理なのではない。この築地塀には、戊辰戦争の銃痕が遺っておりました。平成四(一九九二)年の修復前には、砲弾による大きな弾痕も見られました。ここ長命寺は、戊辰戦争の激戦地だった。そして、その境内には、会津藩士の戦没者の墓があります。「戦死墓」とだけ記された墓石が、たった一基、ぽつねんと、戦争の悲哀を、無言で語り続けておりました。
この一つの墓の下に会津藩士145人が眠っております。会津藩士たちの無念、屈辱が伺えます。地下に眠る会津藩士たちの冥福を、心からお祈りしたいと強く思いました。
【戊辰戦争時の砲弾跡が残る「五條の築地塀」】
【「長命寺戊辰戦懐古碑」】
続きまして、戊辰戦争の際、佐川官兵衛が、秀長寺と隣の住吉神社に兵を伏せておき、新政府軍相手に奇襲を仕掛けました。奇襲は成功をおさめ、ここで確保した補給線が、この後の籠城戦に大きく影響したと言われています。この戦いは会津城下の戦いにおいて、会津藩が唯一新政府軍に勝利した戦いでした。 境内には「秀長寺古戦場碑」「戦没者の供養塔」「佐川官兵衛の歌碑」が、3つ並んで立っています。
【秀長寺】
【佐川官兵衛の歌碑】
【佐川官兵衛】
私は、初めて「長命寺」と「秀長寺」を訪問し、戊辰戦争時に激戦地だった会津藩士の奮闘ぶりを想像して供養して参りました。「秀長寺」での戦いでは、会津藩が唯一勝利したと知り、“さすが、鬼の官兵衛”だと強く思いました。
【記者 鹿目 哲生】
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