バックナンバー(もっと見る)

2024年春季号 vol.5

今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…

ザ・戊辰研マガジン

2022年11月号 vol.61

源平合戦ゆかりの地巡り その2(京都)、続きです。

2022年10月24日 15:48 by katsukaisyu
2022年10月24日 15:48 by katsukaisyu

 さて、先月郷に続きまして、平家です。天皇の子孫が臣下になり、皇族から離れ、「平」姓をもらって平の何々になりました。平清盛は桓武平氏と言われ、本拠地が伊勢国だったので、伊勢平氏とも言われました。平氏の中でも平忠盛(清盛の父)の一族が、「平家」と呼ばれました。

 源氏も天皇の子孫が臣下になり、「源」姓をもらった一族で、源頼朝は清和源氏と言われ、先祖の本拠地が河内国で、河内源氏とも呼ばれました。頼朝の五代前の先祖、源八幡太郎義家の「八幡」は石清水八幡宮で元服したことからきています。石清水八幡宮は旧山城国にありますが、河内国のすぐ隣です。ドラマの中でも、頼朝は「源義家が子孫」と自称していました。義家の墓は旧河内国、大阪府羽曳野市にあります。頼朝自身は京都生まれ、京都の都育ちでした。

  12世紀半ばの院政期、治安維持のため武士たちが京へ集められ、貴族たちに登用され、力を持つようになりました。それぞれの棟梁になったのが平清盛と源義朝で、最終的に清盛が勝利しました。京から源氏勢力は追い出され、「平家にあらずんば、人にあらず」が始まりました。

 それでも、なかなか武士勢力は「都」の中へ屋敷を構えることはできなかったようで、清盛一族の京での本拠地は八条付近で、現在、JR京都駅の南側辺りです(洛中はJR線よりも北側)。もう一カ所、別宅地があり、それが鴨川の東側、現在の六波羅蜜寺の近辺でした。

 近年の研究により、晩年の清盛の居住は、福原(神戸市)と京都八条付近、京都六波羅付近の三カ所で、八条の屋敷で亡くなりました。室町期、足利将軍家の公方邸は洛中の室町通沿いにありましたが、織田信長の時代でも、信長は上京・下京の京都市中には入れなかったようです。戦国期の京は上京・下京に別れた軍事都市でしたが、信長は京都市中に城を造らず、上洛した際の居住地にしたのは妙覚寺や本能寺といった法華宗の寺で、下京の町なかではなく、西側はずれにありました。

 写真は六波羅蜜寺です。六波羅蜜寺は、963年に空也上人によって建立された天台別院です。平忠盛が当寺の塔頭に入ってきて以来、境内には平家一門の屋敷が軒を連ねることになりました。現在の本堂は豊臣秀頼の寄進によると伺いました。

  清盛塚です。清盛は京で亡くなり、遺言で福原(神戸市)に墓を造ってほしいと言い残したとのことで、神戸市にも清盛塚があります。

  阿古屋の供養碑です。碑の前に、歌舞伎役者、坂東玉三郎さんが阿古屋の供養碑の解説碑を建立されました。遊女阿古屋は、平家の武将、平景清の愛人でした。奈良で頼朝を暗殺しようとして失敗した、景清の行方を聞き出そうと、源氏方は阿古屋を攻めるという歌舞伎の名作があり、阿古屋役は女形の最高の役だとか。

 「六波羅探題」の跡碑です。鎌倉期、当地は承久の乱後、京都支配を強めた鎌倉幕府の京都の本拠地でした。

 文化財収蔵庫には、平安期から鎌倉期に造られた平清盛座像や空也上人像、定朝作や運慶作の仏像が収蔵されていて、見ごたえがあります。

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)

2024年春季号 vol.5

今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…