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「長岡藩軍事総督河井継之助―武士道に生きた最後のサムライ」

2021年11月24日 16:26 by minnycat

「長岡藩軍事総督河井継之助―武士道に生きた最後のサムライ」 ベスト新書 (73)  星 亮一 (著) の感想です。

 前半はさらっと復習のような形で継之助の人となりをおさらいし、最後の 盛り上げ方が流石に上手く、感動的に読み終えました。(2005年4月)

心に残った箇所は、方谷は継之助が自費で来た事に感心し、「昨今の官使は公金を 使うことばかり考えている。それが国を滅ぼす」、、、  

 誠に、今の日本の姿、そっくり。

小千谷談判での土佐の岩村精一郎、わずか23歳、河井の人物経歴は 今になってようやく知ったところで、当時は知る由もなかった。 後に門衛に聞くと、河井はなおも幾度となく、本陣の門に来て、再度の 面会を請い、深夜までその附近を徘徊して、しきりに取り次ぎを求めた。

 あぁ、この箇所、悔やまれる部分ですね。

 継之助の気風は長岡人に強く受け継がれ、山本五十六ら多くの俊英を 輩出した。「時として人間は命をかけねばならない」という 大きな命題を継之助は今の世に残した。   

  政治家に是非、心に刻んで欲しい言葉です。

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河井継之助について 河井継之助の生涯と幕末時勢

文政10年(1827年)1月1日 継之助、長岡城下に生まれる

嘉永5年(1852年)秋 江戸に遊学。佐久間象山に学ぶ 翌年、浦賀に黒船来航

安政6年(1859年) 継之助、再び江戸、備中松山、長崎へ遊学 山田方谷らの教えを請う

安政7年(1860年)3月3日 桜田門外の変。 尊王攘夷の気運が高まる

慶応元年(1865年) 継之助、郡奉行に就任。藩政改革に着手

慶応2年(1866年)1月21日 坂本龍馬の仲介により、薩長同盟締結

慶応3年(1867年)10月14日 徳川慶喜、大政奉還を上奏 12月9日 王政復古の大号令

慶応4年(1868年) 1月3日 鳥羽・伏見の戦い 近代武装の西軍を前に東軍は大敗 長岡藩、ガトリング砲など近代兵器を備えていく

4月11日 江戸城無血開城。慶喜は水戸藩にて謹慎 5月2日 継之助と西軍の談判が決裂 のちに、北越戦争開戦 7月25日 継之助負傷 8月16日継之助、敗走途中の会津塩沢で没。享年42

 敵軍50,000人に、たった690人で挑んだ“最後のサムライ” 260年余りに及んだ徳川幕府は終焉を迎え、諸藩は東軍と西軍に二分していく。

慶応4年、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発した。越後の小藩、長岡藩の家老・河井継之助は、東軍・西軍いずれにも属さない、武装中立を目指す。戦うことが当たり前となっていた武士の時代、民の暮らしを守るために、戦争を避けようとしたのだ。 だが、和平を願って臨んだ談判は決裂。継之助は徳川譜代の大名として義を貫き、西軍と砲火を交えるという決断を下す。 妻を愛し、国を想い、戦の無い世を願った継之助の、最後の戦いが始まった……。

映画「峠」は来年公開予定です。楽しみですね。

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