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ザ・戊辰研マガジン

2021年12月号 vol.50

西郷隆盛と庄内藩の人々

2021年12月05日 22:10 by norippe


 月山の麓山形県庄内地方。ここを治めていた庄内藩は、会津と同じく新政府軍と戦い敗れた。しかしその後の歩みは会津藩とは異なるものであった。


 鶴岡市松ケ岡地区は庄内藩士の子孫たちが多く暮らしている場所である。この地の歴史から考えると、意外なものが大切にされていた。ほとんどの家で飾られ、昔の代から飾ってあったと思われる西郷隆盛の遺影である。西郷隆盛は、町内の人たちから見れば自分たちを賊軍の立場に追い込んだ憎い敵のはず。それがなぜ?


 明治元年9月、庄内藩主に対する新政府の処分が藩校の致道館で言い渡された。藩主は切腹を覚悟していたが、処分は謹慎にとどまり、大きく領地を減らされることもなかった。そこには西郷の配慮が働いていたという。新政府の中には、庄内藩に厳罰を下さなければ、また反乱が起こると警戒する声があった。しかし西郷はこう言って説得した。「武士が兜を脱いで降伏したのだから、後のことは何も心配しなくてよい。」こうして庄内に留まることを許された旧藩士が取り組んだのが松ケ岡の開梱。養蚕事業を起こし、明治日本最大の輸出品「生糸」の生産拠点を作るのが目的であった。



 この時期、旧藩士の先頭に立って事業を推し進めたのが菅実秀(すげさねひで)。幕末から明治にかけ、藩の要職を務めた人物である。開墾に加わった旧藩士はおよそ3000人。腰に刀を差している人もいる。彼らを支えていたのは、新時代の国づくりに貢献することで賊軍の汚名を晴らしたいという思いであった。それでもなお、新政府の中には彼らを危険視する人たちがいた。2500人の精鋭が組織を崩さないで肉体を鍛えていると、いつかあったらまた戦いを起こすんじゃないかという思いがあったのだ。長州閥の参議や大隈重信等も最後まで庄内をそのような見方をしていたのだ。



 そんな中でも西郷は「いやいや庄内は違うんだよ、新たな土地を開拓してそこにシルク産業の一大流れを作っているんだ。最終的には国を富ますことになるのだから、そんなものの言い方は失礼であろう。」ということで、西郷にそう言われると、参議も大隈もおとなしくなっていったという。
 開墾が始まって3年後の明治8年、松ケ岡から初めての生糸が出荷された。



 さて、養蚕事業が軌道に乗って行くのを見届けた西郷であったが、その後、明治10年西南戦争が勃発。反政府軍を率いることになった西郷は、7ヶ月に及ぶ戦闘の末敗れてしまった。西郷は逆賊と呼ばれ、そして自ら命を絶ったのである。しかし松ケ岡の人達は西郷の恩を忘れなかった。西郷が考えたことや夢見たことを、広く後の世に伝えようと、「南洲翁遺訓」を編纂したのである。南洲とは西郷の号のこと。遺訓は菅たちによって全国に配られ、時代を超えて人々に読み継がれる名著となったのである。



写真は庄内藩の経済の中心地酒田にある南洲神社である。西郷の言葉に惹かれ、大勢の人たちが集まり「南洲翁遺訓」を唱和するのである。

”命もいらず名もいらず 官位も金もいらぬ人は 仕抹に困るもの也 此の仕抹に困る人ならでは 艱難を共にして 国家の大業は 成し得られぬなり”

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