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ザ・戊辰研マガジン

2021年12月号 vol.50

横須賀の元会津藩士を訪ねて

2021年12月06日 18:57 by tetsuo-kanome
2021年12月06日 18:57 by tetsuo-kanome

 11/21、私は、横須賀市西浦賀の『鹿目一郎氏(91歳)』のご自宅を訪ね、鹿目一郎氏が大切に保管されている会津藩に関する資料を拝見して参りました。私と同じ苗字であり、鹿目家のルーツについても語り合って参りました。

【会津藩主松平容保公の直筆の和歌】

 冬の浦賀に来たりて   容保

 此里は  のどけき春乃

 心地して  ふゆこそさらに 思わさりけ利

 

 【晩年の会津藩主の松平容保公と松平家第十二代当主の松平保男氏】

 

 鹿目一郎氏の叔父の鹿目善輔氏の祖父にあたるのが会津藩士の鹿目幸之助です。鹿目幸之助は、会津若松市城南小田町に生まれ、原政之進の配下に属し、会津藩主の松平容保公が京都守護職として京に上るときに、御供として従いました。時に若干19歳。紅顔の美少年でありました。戊辰戦争時には、佐川官兵衛の下に、大内、田島と転戦しました。落城後は、越後高田に謹慎し、明治三年五月に猪苗代に帰着しました。しかし、心休まらず、この年の7月上旬、意を決して浦賀に移住しました。穴沢与十郎の商法を助けた後、自営業で茶、陶器商を開始しました。その後、明治20年代の冬、浦賀に元会津藩主の松平容保公と山川浩(元会津藩家老、陸軍少尉)が静養に訪れ、浦賀在住の元会津藩士たちと冬のある日を釣り糸を垂れ、のんびりと過ごしました。その際に、松平容保公が和歌を読み、鹿目幸之助に残しました。この和歌を大事に保管されているのが、横須賀市西浦賀在住の鹿目一郎氏です。また、「晩年の会津藩主の松平容保公と松平保男氏の写真」も鹿目一郎氏が保管されておりました。

 鹿目幸之助は、浦賀に移住後、鹿目常吉と改名しました。松平容保公の七男で松平家第十二代当主の松平保男氏とも交流がありました。

【鹿目幸之助は袴姿・松平保男氏は軍服姿】

【第十三代松平家当主の松平保定氏の名刺 ※鹿目一郎氏保管】

【会津藩家老の田中土佐の末裔の田中玄宗氏の名刺 ※鹿目一郎氏保管】

【鹿目常吉(旧 幸之助)が紹介されました書籍】

【戊辰戦争の記録の一部 ※大戸村にて大勝利とありますが、大戸村は私の父の実家がありました。】

 明治三年、鹿目常吉は、「宇治諸国 商處 雅松軒」の大看板を掲げ、銘茶陶磁器商として浦賀で帰商し開業しました。

 西浦賀の「鹿目茶舗店」は、2010年に閉店されました。

 古老の話として明治十四年五月、明治天皇が 観音崎砲台視察のため浦賀に御臨幸されたとき、途中の鴨居の会津屋 高橋勝七方で休憩され、このとき浦賀町宮下の十三歳になる鹿目家の 息子がせん茶を献上したという話も残っております。このお店を見晴らす東福寺裏山の叶神社管理地に鹿目家の墓碑があります。墓文には 「鹿目家ハ旧会津藩士也、明治三年当浦賀町エ移住ス、 旧墳墓は岩代国若松市南町真宗明栄寺在リ当時ノ戸主 鹿目常吉ハ幼名ヲ幸之助ト云ヒ字ヲ忠屋ト稱ス」とあります。

 私は、この「鹿目家のお墓」もお参りして参りました。

【鹿目家のお墓】

 鹿目常吉の孫が「鹿目善輔」で、日本の海軍軍人。鹿目善輔は海軍軍人として常に誇りを持っておりました。鹿目善輔は、第二次世界大戦時、軍艦「多摩」の艦長として、アリューシャン沖海戦では、降り注ぐ弾丸の中、艦橋に立ち指揮を執りました。その姿は古武士のようであったと当時の海軍の方から鹿目一郎氏は聞いたそうです。第二次世界大戦終戦後、アメリカ海軍にその働きぶりを認められ、米海軍横須賀基地(横須賀海軍施設)警備隊の初代警備隊長に就任。鹿目善輔隊長については、「ザ・戊辰研マガジン№47」で詳細を紹介しておりますのでご覧ください。(記事はこちら)

【軍艦「多摩」】

【軍艦「多摩」の戦没者慰霊碑(府中市の大國魂神社)】 

【鹿目善輔隊長】

 そして、この鹿目善輔隊長の甥が鹿目一郎氏です。

 私は、この鹿目一郎氏のご自宅に初めて伺いたっぷり二時間、保管されているたくさんの会津藩に関する資料やお写真を見せて頂きました。いろいろなお話を伺う中で、鹿目常吉が浦賀に移住した後、なんと秋月悌次朗も訪ねてきたそうです。鹿目常吉は、会津藩が京都守護職就任の際に、京都で小姓として働き、秋月悌次朗にも仕えたそうです。ちなみに、私の戊辰戦争研究会でのベーンネームも秋月悌次朗です。また、お互いの鹿目家のルーツについても語り合いましたが、残念ながら共通の親族の接点はありませんでした。遠い遠い親戚であることは間違いないとは思いますが。

【鹿目一郎氏の弟様が営業なさっている鹿目茶舗のお茶を頂きました】

 後日、鹿目一郎氏から家紋を教えて頂きました。私の先祖代々からの家紋と同じでした。鹿目一郎氏曰く、これまで同じ鹿目を名乗る方と何人もお会いしておりますが、同じ家紋の方は私が初めてとのことでした。鹿目一郎氏や鹿目善輔隊長、元会津藩士の鹿目幸之助と私の祖先は、間違いなく同じ鹿目一族であることが証明されました。それはそれは感激しました。ますます鹿目家のルーツを辿りたいと改めて決意しました。

【鹿目家の家紋】

 私は、鹿目一郎氏のご自宅をあとにして、横須賀市内の会津藩士の墓地がある西徳寺と腰越墓地を巡り追悼して参りました。

【西徳寺の会津藩士之墓※足順】

【腰越の会津藩士之墓※足順】

 私は、カーナビで「西徳寺」はすぐに案内してくれて道に迷わずに行けましたが、「腰越墓地」は何度も道に迷い、「会津藩士之墓」の看板を頼りにご近所の方に何度も伺いながらやっとたどり着きました。「西徳寺」の「会津藩士之墓」には、ペットボトルが手向けてあり、ご遺族や三浦半島会津藩士顕彰会の皆様が大切になさっていることを感じることができました。「腰越墓地」は、案内の看板がたくさんあり、墓地には綺麗な砂利がひかれており、雑草一つありませんでした。こちらも会津藩士之墓を大切になさっていることにとても感銘を受けました。同じ会津藩の血が流れている自分としてはとても嬉しくなりました。

【記者 鹿目 哲生】

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