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2021年07月号 vol.45

十津川郷士⑦(御親兵多難-政変勃発)、その2

2021年06月25日 22:52 by tama1
2021年06月25日 22:52 by tama1

 嘉永六年、ペリ-の黒船騒動に刺激され、長沢俊平や乾丘右衛門らと禁闕守衛を志して からまる十年、よくぞここまで・・先頭に立つ主税をはじめ、丸田藤左衛門、千葉定之 介、前田雅樂、吉田源五郎ら、あの滝峠の護良親王御詠碑に名を連ねた同志たちに とって感無量のことだったでしょう。

 五ツ半(午前九時)、一同は学習院の前庭に整列、参政卿に謁見しました。 先の御沙汰で郷士は参政方の支配下に入り、郷里の十津川は全域参政方の所領になった ので、諸卿は、いわば主君となり、この時、参政方には三条実美以下七人の公卿がいたが 、謁見の場に現れたのは、東久世通禧と錦小路頼徳(よりのり)の二人でした。 二人は訓示とともに、禁裏守衛につくに当たっての規律四カ条を文書にして示し、遵守を 誓わせています。この文書は今も残っているそうです。

一、警衛ノ輩ハ二月、八月両度交代ノ事。用無クシテ猥ニ出入ヲナサズ、拠所ナク私用    ニテ上京ノ者ハ別宿、勝手タルベキ事。

二、人数ノ儀ハ旧弊ニ不泥(こだわらず)壮盛ノ者相撰ビ差出スベキ事。

三、郷中取締ノ向ハ、諸事進退共、伺ノ上、取計ウベキ事。

四、郷中一同、文武修業専一タルベク、若シ旧弊ニ泥(なじ)ミ因循ノ者コレ有リ候ハ バ、早速申シ出ルベキ事。

 半年ごとに半数を交代させれば、マンネリ化も防げるし、どの郷士にも万遍なく出仕の 機会があり、また郷里に帰って次の出仕までゆっくり英気を養えることなど、郷士にとっ ても異論はなく、主税ら郷士は謹んでお受けする旨を伝えました。

 当初の任務は、その役向きに慣れるまで長州の警衛陣と行動を共にしています。 宮中の警衛は本来、所司代の仕事であるが、京の治安悪化に伴い、長州、会津、桑名など 各藩が命を受けて藩兵を出し、九門の警衛に当たっていました。中でも長州藩は、若手の 激派公卿を取り込んで廟堂に食い込み、宮中を牛耳るほどの威勢を持っていました。 その長州藩と一緒に行動せよという参政卿の命に、主税らはみな喜びました。かねて親交 があり、気心が知れた藩だから、仕事も進めやすく、何かと心強いと誰もが期待に胸躍ら せたことでしょう。

 そして、翌朝です!政変が突発したのです! 頼みの参政諸卿や長州藩が、一挙に凋落することになろうとは誰が予測できたでしょう。 いわゆる有名な「八・一八政変」のことで、文久三年八月十七日の夜半から十八日未明に かけて、孝明天皇の意を受けた中川宮が、前関白近衛忠恕(このえただひろ)父子や薩摩 、会津両藩と謀り、三条実美ら激派の公卿と、後押しをする長州藩を宮廷から追い落と し京を尊攘激派の手から公武合体派の手へ奪い返した電光石火のク-デタ-でした。

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