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映画『峠 最後のサムライ』~越後長岡藩家老 河井継之助~

2021年07月04日 17:46 by tetsuo-kanome

【映画『峠 最後のサムライ』】

【河井継之助】

 世代を超えて熱烈なファンを数多く持つ歴史小説界の巨星・司馬遼太郎が、幕末の風雲児と呼ばれた、越後長岡藩家老・河井継之助を描いた作品「峠」。累計発行部数386万部超の大ベストセラー、司馬遼太郎の名著「峠」がついに映画化!本作はこれまで一度も映画化、ドラマ化をされたことがなく、映画『峠 最後のサムライ』として今回が初めての映像化される。公開は2020年を予定。日本の歴史が大きく動いた幕末を、日本を代表するキャスト・スタッフにより、壮大な戦いと共にスクリーンに映し出される。監督・脚本には黒澤明監督の助監督として数々の名作に携わり、初監督作品『雨あがる』で第24回日本アカデミー賞最優秀作品賞ほか、計8部門で最優秀賞を受賞し、常に上質な日本映画を送り出してきた、日本映画界の名匠・小泉堯史。 “知られざる偉人”河井継之助を演じるのは、日本映画を代表する俳優・役所広司。その継之助をいかなる時も信じ、支え続けた妻おすがには、数々のテレビ・映画・舞台で活躍を続ける女優・松たか子。継之助を最後まで想い続けた、その夫婦愛も本作の見どころのひとつ。黒澤監督作品常連の演技派俳優から、新進気鋭の若手キャストまで、錚々たるメンバーが出演する。 幕末・明治維新の動乱の中で、多勢の敵軍に対して決死の戦いを挑んだ“最後のサムライ”たちの知られざる姿を描く。歴史に名高い北越戦争の再現は圧巻だ。1867年の大政奉還により、徳川幕府は終焉を迎えて諸藩は東軍と西軍に二分され、翌年戊辰戦争が勃発。越後の小藩、長岡藩の家老・河井継之助は民衆のために中立を貫こうとする。だが平和のための交渉は決裂し、継之助は苦渋の決断を下さねばならなくなる。 映画『峠 最後のサムライ』は、2021年7月1日(木)に公開を予定しておりましたが、今般の緊急事態宣言の延長や対象エリアの拡大などを鑑みまして、関係者内で慎重に検討を重ねました結果、一人でも多くの方により良い環境でこの作品を届けたいとの想いから、再度、公開を延期することを決定いたしました。2022年を想定しているそうです。

 日本各地で行われた戊辰戦争の中で、「北越戊辰戦争」は、もっとも過酷な戦いの一つであったと言われています。対峙した河井継之助率いる長岡藩は、徳川譜代の大名で幕府の老中を務めた家柄でしたが、その石高はわずか七万五千石。一方、新政府軍からしてみれば、北越の小藩の抵抗など一捻りに握り潰してしまおうと考えていたのでしょう。しかし、実際には長岡藩の軍事総督に就任した河井継之助の手腕に大いに悩まされたのでした。

【「長岡城攻防絵図」(長岡市立中央図書館蔵)】

  1868(慶応 4)年5月10日。長岡藩領内に侵攻してきた新政府軍は、長岡藩の重要拠点であった榎峠を占領していましたが、継之助はまずここを奪還することで開戦の狼煙をあげました。そこから一気に榎峠の南東にある朝日山まで攻め込み、夕刻には山頂を占領。ここに大砲を設置して強固な要塞とすることで、新政府軍の攻撃を退けようとします。思わぬ惨敗を喫した新政府軍の長州藩奇兵隊は、5月19日未明、折からの増水で濁流渦巻く信濃川を決死の覚悟で渡ると、寺島村(現在の中島)に上陸し長岡城を奇襲する作戦に出ました。この時、主力部隊を率いて小千谷方面攻略に出ていた継之助は、不意を突かれた格好となり、急ぎ城下へ戻ると当時日本に三門しかなかったというガトリング砲を持ち出し、自ら凄まじい勢いで弾丸を連続発射させ応戦しましたが、時すでに遅し。長岡城は落城し、藩主や家族を会津藩領や越後加茂へ脱出させました。一旦栃尾、加茂まで兵を退いた継之助は、長岡城奪還作戦を開始します。6月2日、長岡藩きっての精鋭・山本帯刀率いる牽制隊が、敵の軍需が集中する今町を攻撃。敵がこれに応戦している隙を見計らい、継之助率いる主力部隊が今町の後方に突入して、まず今町を占領します。さらに7月24日には、魔物が住むと言われた八丁沖を約700名の長岡兵が決然と渡渉して攻め込み、見事長岡城を奪還しました。この快挙に城下の町人たちは酒樽を開けて祝い、長岡藩兵を盆踊りで出迎えたというエピソードが残っています。しかし、長岡城奪還後も長岡藩兵は交戦に明け暮れます。その最中、激しさを増す新町口の戦いを応援するため、交戦している場所へ向かおうとしていた継之助の左膝に一発の銃弾が命中。頼れる指揮官の負傷に衝撃を受けた長岡藩兵は、急激に士気が下がり、7月29日、長岡藩は再び陥落してしまいます。それまで新政府軍は北陸道での思わぬ苦戦に大量の兵士を次々と送り込み、越後平野を覆い尽くすほどの勢いになると、長岡藩兵の必死の攻防も虚しく会津へ退却を余儀なくされました。「北越戊辰戦争」では、新政府軍が2万に対し、長岡藩を中心とする奥羽越藩同盟軍は5千と、戦力の差は戦う前から明らかでした。負けることが分かっていながら、継之助はなぜ戦うことにしたのでしょう。長岡藩の開戦は、1868(慶応 4)年5月10日に新政府軍が占領していた長岡藩領内の榎峠を攻めたところから始まりましたが、実は継之助は長岡藩の重要拠点であったこの地から開戦前に兵を退かせ、新政府軍にあえて明け渡していたのです。それは、長岡藩が戦闘の意思がないことを示し、会津を討伐するという無益な戦を止めさせるためでした。1868(慶応 4)年5月2日、非戦の望みをかけて新政府軍が本営を敷く小千谷の慈眼寺へ、継之助は兵も率いず乗り込んでいきます。新政府を代表して対面したのは、土佐藩出身で血気盛んな24歳の岩村精一郎でした。継之助はまず、新政府軍から再三打診されていた出兵や献金の求めに応じなかったことを詫びた上で、戦争は勝っても負けても失うものが大きいので、今は内戦で国土を疲弊させるよりも諸藩が団結して新しい国づくりに邁進すべきではないかと説き、会津をはじめとする旧幕府軍との和睦説得のための猶予を願い出ました。しかし、岩村はその嘆願書に目も通さず、すがる継之助を振り払いました。こうして長岡、ひいては日本の命運をかけた「小千谷会談」は不調に終わり、継之助の非戦中立の夢も敗れました。会談の翌日、継之助は幼馴染で新政府軍への恭順を主張していた三島億二郎と会い、戦が避けられなくなったことを詫びます。「俺の首と三万両を岩村に差し出せば戦わずに済むかもしれない」と言う継之助に、新政府軍には義がないことを悟った億二郎は理解を示し、継之助を筆頭とする長岡藩士たちの故郷と自分たちが掲げる正義を守るための戦いが始まったのです。幕末風雲の時代に生を受け、長岡の民の暮らしを豊かにすることで、長岡の発展を目指した継之助でしたが、その夢は「北越戊辰戦争」によって砕かれてしまいました。1868(慶応 4)年7月29日の再度の長岡城落城によって、会津領へ落ちていく長岡藩兵の担架の中に足を撃たれた継之助は揺られていました。実際には八里(約32キロ)の道も、その険しさから「八十里越」と呼ばれる峠道で、継之助は「八十里 腰抜け武士の 越す峠」と自嘲の句を詠んだと伝えられています。険しい峠を越え、会津領の塩沢村矢沢家にたどり着いた継之助は、旧幕府の名医・松本良順の治療を受けましたが、破傷風が悪化していて手の施しようもありませんでした。自らの死を悟った継之助は、家臣に棺桶と骨箱を用意させると8月16日に死去。享年42歳。行動をともにしていた従者の外山侑造には、「これからは商人の時代になるから」と言い残しました。外山はのちに実業界で成功し、アサヒビールや阪神電鉄の創業者になっています。継之助の遺体は遺言により河原で火葬され、遺骨は会津へ届けられると会津藩士・松平容保も列席のもとで葬儀が行われました。越境した長岡藩士たちは、会津領只見村の村民にあたたかく迎えられて行軍を再開。その後も多くの犠牲を払って奮戦しましたが、「奥羽越列藩同盟」の諸藩が次々と白旗を掲げるなか、9月25日、米沢城下の越後は征討軍の本堂に無念の降伏を申し入れています。

【河井継之助の墓(福島県只見町)】

 新潟県との県境の福島県只見町には、「河井継之助記念館」があります。私は残念ながら訪問したことがありませんが、いつか見に行きたいと思っておりました。

【河井継之助記念館(福島県只見町)】

 

 【河井継之助の墓(新潟県長岡市)】

 新潟県長岡市では 河井継之助の墓石は長岡を荒廃させた張本人として 河井継之助を恨む者たちによって、何度も倒されたりもしたそうです。戦争責任者として河井継之助を非難する言動は、河井継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いているとのお話しも聞きます。残念でなりませんね。

 河井継之助の映画であります「峠 最後のサムライ」は、まさにコロナ禍の中、公開延期の繰り返しで、現時点では2022年公開予定です。河井継之助の雄姿を早く観たいものです。

【記者 鹿目 哲生】

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