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【幕末維新折々の記・十九】東京商法講習所

2021年06月10日 11:16 by tange

 明治12年(1879)、私の曽祖父・鈴木久孝は、東京商法講習所(現、一橋大学)での勉学のため、前年に結婚した妻・光子を伴い会津若松から東京へ移り住む。
 明治初頭に久孝が青雲の志を抱いて通った学校の位置を特定できないかと考えた。
 東京都中央区編集発行の「中央区年表・明治文化編」に次のような記述を見つけた。
 『明治8年9月、木挽町に、わが国最初の商業学校、商法講習所が開校される。9年5月、後の農商務省の地に移る』
 商法講習所は、8年(1875)9月、京橋区尾張町2丁目(現、中央区銀座6丁目)の鯛味噌屋の二階で授業を始めた。従って、中央区年表に記載された木挽町は開校の地ではない。
 その鯛味噌屋は、数年前にオープンした巨大な商業施設GINZA SIXの片隅にあった。前面の銀座通り歩道の端に赤御影の小さな記念碑が立ち、歩道側に「商法講習所」、車道側に「一橋大学発祥の地」と刻まれている。
 
 開校の四カ月後、創立者であった森有礼は、清国駐在全権大使に任命され日本を離れることになったため、渋沢栄一を頭取とする東京商法会議所(現、東京商工会議所)に学校の運営を委ねる。同会議所は、11年(1878)、日本橋坂本町から木挽町の農商務省の地に移転する(中央区教育委員会発行『中央区の昔を語る・銀座』)。
 一方、商法講習所は、9年(1876)5月、やはり木挽町の農商務省の地へ移転していたので、講習所とそれを運営する会議所は、互いに近い位置にあったと考えられる。
 つまり、東京商法講習所の跡を探すキーワードは、「木挽町」、「農商務省」、「東京商法(工)会議所」ということになる。

 現在、中央区に木挽町は無く、旧木挽町は全て銀座になった。あまり広くない木挽町通りに、その名をわずかに留めているだけである。
 かつての木挽町は、三十間堀(現、昭和通り)を挟んで、現在の銀座1丁目から8丁目まで向かい合うようにあった。江戸期、城郭や城下町の建設用材が諸国から船で運ばれ、三十間堀沿いに陸揚げされていた。そして、辺りに木材を加工する木挽職人が数多く集まったことで、一帯は木挽町と呼ばれるようになった。
 40年(1907)発行「東京市15区地図(京橋区)」で木挽町10丁目に農商務省の書き込みを見つけた。その地図と現在の地図を重ねると、農商務省用地は銀座6丁目であることが分かる。
 
 商法講習所の跡を探して銀座6丁目の該当地周辺を歩き回ったが、新橋演舞場と采女橋公園の他には高層ビルがあるばかりで、辺りに石碑などは見つからなかった。
 それでも諦めずに同じ道を何度も歩いていたら、采女橋公園の向かいの歩道に、灌木で囲まれた一画があるのに気がついた。何かを祀っているような光景だった。
 その内側に「東京商工会議所発祥の地」と刻まれた赤御影の石碑があった。会議所創立100周年を記念して昭和53年(1978)に立てられ、碑文に農商務省の文字も読みとれる。
 残念ながら確かな位置を特定することはできなかったが、この付近に商法講習所が在ったと推定した。

 「一橋大学百年史」に、明治9年5月竣工の東京商法講習所の写真が載っている。広々とした芝生を前にした二階建て露台付きの白亜の学舎である。それは、まさに明治初頭の美しい擬洋風建築だった。
 12年に入学した曾祖父・久孝も、その学舎で当時最新の商法を学んでいたのだ。
(鈴木 晋)



東京商工会議所発祥の地・石碑(采女橋公園の向かいの歩道)

 
次号、「明治の教育」






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