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ザ・戊辰研マガジン

2020年08月号 vol.34

酒井玄蕃は鬼ですか?

2020年08月05日 23:33 by norippe
2020年08月05日 23:33 by norippe


酒井玄蕃

 あるテレビ番組での事、山形駅前でこの写真を掲げ道行く人に「この方は誰かわかりますか?」と尋ねてみると、若い方のほとんどが知らないと言う。せめて地元の人くらいは知っていて欲しいと思うのだが、なかなかそうは行かないようである。名前くらいは読めるのかと思いきや「さかいげんばん?」と読んだ若者がいたが、ちょっと近いが不正解!
 正解は「さかいげんば」
ではこの人は一体、何をした人なのだろう。
 新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争。西郷隆盛が攻め入ってくるのを徹底抗戦して阻止した山形の庄内藩。その指揮をとったのがこの酒井玄蕃なのである。庄内藩は新政府軍を次々と撃破し、連戦連勝で一度も負けなしの伝説の名将と言われた酒井玄蕃であった。そして付いたあだ名が鬼玄蕃。庄内藩は北斗七星をかたどった旗印で、必勝を意味する旗であった。庄内藩は山形県北部の日本海に面した位置にある。仙台藩や会津藩は知っている方も多いと思うが、庄内藩はよく知らないという方も多いのではないだろうか。

 庄内藩は藩政改革に成功を収めた富裕藩で、蝦夷地の警備や品川台場警備を担っていた。黒船来航から10年が過ぎ、徳川幕府の勢力が落ちた頃、江戸や京都では幕府に反発する過激派が横行し、治安が悪化を辿り、それを取り締まるために、京都では会津藩が、そして江戸ではこの庄内藩が幕府より警備を命ぜられたのである。
 庄内藩は過激派浪士を次々に取り押さえ、江戸では大評判の警備隊であった。日夜、江戸の街を見まわっていたので、お回りさんと言われるようになり、現在のお巡りさんの原点はここから始まったと言われている。

 現在の山形県庄内地方にあった庄内藩。統治したのは酒井家。徳川四天王の一人・酒井忠次を祖とする御家である。元々、置賜地方をのぞく山形県は、最上義光の最上家が支配する57万石の大藩であったが、江戸時代初期のころの最上騒動がもとで同藩が改易に追い込まれ、領地が4つに分けられると、そのうちの一つが庄内藩として、酒井家に受け継がれていったのである。最上義光の善政が行き届いていたため、この地方は農業や商業面で恵まれていた。紅花栽培や船運の発達などで貿易も促進し大きな利益を生み出し、家臣や領民が一丸となって信頼関係を保ち、統治が安定した藩が庄内藩なのである。

 幕末においては新選組を率いる会津藩が薩摩・長州の西軍から敵意を向けられていたが、庄内藩も同じであった。庄内藩は江戸の警護を命ぜられ、民衆から大変信頼されていた。ところが治安は守られていたのだが、慶応3年の終わりから状況が変化し始めた。薩摩は西郷隆盛の指令で江戸市中を騒乱し、略奪、放火、殺人、暴行などの悪事を働き、いわゆる薩摩御用盗を繰り返したのだ。それには一派の狙いがあった。
 これらの挑発行為の目的は、武力衝突を誘発するための策略にあった。庄内藩は我慢に我慢を重ねたが、これにも限界があり、慶応3年12月25日、薩摩藩邸に乗り込み、そして焼き討ちしたのである。江戸の治安維持に力を注ぎ、凶悪者を相手に戦い、幕末の政局からは距離を置いていた庄内藩であったが、会津藩同様、新政府から目の敵とされ、その後の戦火に巻き込まれることになるのである。薩摩は庄内藩を逆恨みして、奥羽鎮撫軍(新政府軍)を庄内に差し向けた。薩摩藩士の下参謀大山格之助が副総督の沢為量を伴って、いち早く新庄に進んだのは庄内を討伐するためであった。
 庄内藩は籠城できるような城はなく、攻撃が最大の防御で各地へと兵を押し出した。
 奥羽の戊辰戦争で初めて戦火が交わされたのが清川の戦いである。庄内兵と薩摩兵・新庄兵の戦いであるが、初めは薩摩兵が優勢であった。しかし支藩の松山藩や鶴岡城から出兵して来た援軍で薩摩兵を撃退したのである。

 庄内兵は天童を襲って新政府軍を追い払い、副総督の沢為量は新庄を脱出して秋田に向かった。さらに庄内兵は、新庄、本荘、亀田を攻めて無敵を誇った。西軍はなんなく撃退されてしまい、予想外の戦果に大山も愕然とした。庄内兵は近代兵備を装備し訓練された強力な軍隊であった。7連発のスペンサー銃などの最新式の銃砲や大量の弾薬を所持していたのだ。これには酒田の豪商本間家が大きく関わっていた。
 本間家は北前船を使った廻船で莫大な富を築き、酒田周辺の大地主になっていた。開戦当時、庄内藩に5万両の武器弾薬を提供し、庄内藩の奮戦を支えていたのだ。新政府軍との戦いで庄内藩は4500人の兵を動員していたが、そのうち2200人が、領内の農民や町民によって組織された民兵だったのだ。この高い比率は他藩では見られず、領民と藩との結び付きが大変強かったと言えるだろう。

 酒井玄蕃が率いる庄内藩の強さが表に出たわけだが、彼らの装備が大変優れていたということも理由の一つだ。庄内地方は最上義光時代から経済的に大変恵まれていた。江戸時代において、幕末まで財政が息切れしなかった藩もめずらしい。
 酒田の商人たちの保護は最上家時代より始まっており、その酒田商人でも際だっていたのが本間家であった。庄内藩兵は、この本間家の支援により最新式の武装を備えていた。会津藩の山本八重が使用したスペンサー銃も数多く所持していて、装備の充実さが計り知れる。武器の装備だけではなく、酒井玄蕃の指揮能力も優れていた。

 酒井は新庄城の戦いで二人の隊長を失ったあと、自らが先頭に立って奮起した。西軍の防御戦と、神宮寺岳という天然の要害に阻まれた際には、無灯火の夜間行軍で雄物川を渡った。そして敵の背後に襲いかかり蹴散らしたのだ。敵はまさか進軍してくるとは気づかなかったようだ。しかし、その後の刈和野の戦いでは、酒井は病で寝込んでしまい戦線から外れていたが、酒井が不在の間、味方が大敗したと知り、翌日には輿に乗って指揮をとったのである。そして味方は大奮起して敵を蹴散らし、刈和野を奪回したのだ。そしてすぐさま撤退に転じ自領まで戻ったのである。

 秋田藩にとって酒井率いる庄内藩は恐ろしい敵であった。秋田藩は奥羽越列藩同盟と藩内尊皇派の板挟みにあい、尊皇派が列藩同盟の使者を殺害してしまう事件が起きた。そして秋田藩は西軍につけば勝てると思ったのであるが、庄内藩に叩きのめされたのである。ずるずると引きずり込まれるように西軍についた秋田藩であるが、庄内藩に連戦連敗。秋田藩の装備は、旧式の火縄銃や刀剣、槍であった。庄内藩の優れた装備とは差があり過ぎて、勝てるはずもなかった。幕末の秋田藩の境遇は、かなり悲惨なものであった。そこで秋田藩は、戦線に最新鋭の武器を装備した佐賀藩兵を援軍として送り込んだのである。佐賀藩は装備面では最強と言われた藩であった。

 戊辰戦争終結時、庄内藩領は秋田藩領三分の一を支配下におき、ほぼ無傷であった。酒井玄蕃は鬼と言われる強さであった。

 9月22日に会津鶴ヶ城が陥落し、戊辰戦争の大勢は決した。酒井らが守り抜いた庄内藩領は、会津藩領とは異なり、ほとんど損害がなかった。庄内藩は戦争に勝って、勝負に負けたのだ。
 その後、薩摩の賊が京都を征圧し、それ以来勤王の名を欲しいがままにした。

 鬼にふさわしい強さの酒井玄蕃であるが、実は、酒井は慈愛溢れ多くの人々から慕われる性格であった。酒井は隔たりなく兵士と同じ食事をとり、兵士に対する思いやりは多大で、率先して行動する指揮官であった。玄蕃率いる兵士たちは常に高い士気を保ち、玄蕃を慕っていたのである。そしてその優しさは、味方以外にも発揮されていて、むやみに捕虜を斬ることもなかった。酒井の前に幼い少年が捕虜として引き出されたが、自ら捕虜のいましめを解き、路銀を与え下男ともども解放したのだ。これには秋田領民も涙を流し、感動をあらわにしたのである。

 戊辰戦争が終わり、列藩同盟各藩に沙汰が下った。西郷隆盛は庄内藩を厳しく罰することはなかった。城・武器の没収、兵の引き上げ、藩主の謹慎といった寛大な処分で終わったのだ。酒井玄蕃は城が救われたと思った。しかし何ゆえにこのような軽い処分になったのか?疑問を抱いたのである。
 西郷は庄内藩に対して、一種の後ろめたさを抱き、申し訳ないという感情があったのではないか。テロを起こし無理やりに戦闘を起こさせた事、薩摩藩、そして西郷にとってこの策は一生の悔いであった。庄内藩はとても強かった。そして庄内藩に対して感服し、西郷は自分が犯した行動を罰とし、庄内藩には寛大な処置をとったというのが真相なのかも知れない。庄内地方では西郷隆盛に対しては今でも人気が高い。

 庄内藩が降伏してから7年が経った1874年、酒井玄蕃は鹿児島に西郷を訪ねた。そして西郷と酒井は、これからの日本のありかたを大いに語り合ったという。その後、酒井は戊辰戦争のころから患っていた持病の肺結核で、明治9年(1876年、亡くなった。享年35という若さであった。

 鬼と恐れられた玄蕃の実際の性格は温和で慈悲深かったのである。味方の若い兵を気遣い、敵方の孤児や領民を救ったり、乱暴狼藉や窃盗を厳しく戒め、敵兵の死骸も手厚く埋葬したという。玄蕃の業績は敵方にも後世まで語り継がれた。百姓は玄蕃を「庄内様、庄内様」と言って慕ったのである。

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