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ザ・戊辰研マガジン

vol.3

幕末人物終焉の地(2)

2018年01月04日 12:44 by norippe
2018年01月04日 12:44 by norippe

【新撰組局長 近藤勇の終焉の地】

 新撰組で一番人気があるのは土方歳三ではないだろうか。人気の理由はまずハンサムと言う事。それと義を貫き最後まで戦ったという姿がある。
では、新撰組局長の近藤勇はどうだろうかと言うと、土方までの人気はなさそうだ。ハンサムかどうかと言うのは人によって見る目が違うので何とも言えず、がっちりした体型にゴツイ顔立ち。一見強面であるが意外と性格は穏やかだったようで、土方とは正反対のようだ。しかし統率力は土方より近藤の方が勝っていたのではないだろうか。
 二人とも殺されてしまうのだが、その死に様が大きく違い、土方は勇敢に戦って最後を遂げたのに対し、近藤の場合は捕縛されて斬首刑にあっている。もっとも捕縛されたのは土方の助言によるもので、本人は切腹を希望したのである。その辺の二人の死に様の違いが人気を左右する要因なのかも知れない。今回は無念にも斬首刑にあってしまった近藤勇の終焉までを追ってみた。


近藤勇の生家

 近藤勇は武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)に生まれ、15歳の時に天然理心流剣術道場に入門した。文久3年(18631年)、当時の将軍徳川家茂が京都に上洛する際、近藤は清川八郎が率いる将軍警護組織「浪士組」に参加するのである。
京都に着いた浪士組一行に、清川は「京都に来たのは朝廷に対して尊王攘夷の志を建白することである」と告げ、将軍警護が目的ではなく、攘夷を目的とした組織を作ることが清川の狙いであったのだ。清川は浪士組を連れ江戸に帰ることを提案した。これに異議を唱える者が出て、浪士組は江戸帰還派と京都残留派の2派に分かれ、近藤は京都に残留する事を決めたのである。清川はその後江戸にて幕府の刺客により暗殺されるのである。

 その後、治安が悪化した京都を守るべく会津藩が京都守護職をつとめ、その配下に市中警護として「壬生浪士組」が結成された。さらにその中で近藤派と芹沢派の派閥体制が出来上がった。そして治安を乱す長州藩士を京都から排除するため活躍した壬生浪士組は「新撰組」と名を改めるのである。新撰組初代局長には芹沢鴨が就任したが、京都の吉田屋で暗殺され、近藤が局長となったのである。
元治元年(1864年)倒幕を企んで池田屋に潜伏していた一味を壊滅させた「池田屋事件」で新撰組は一躍有名になり、近藤勇の名も世に知れ渡った。

 慶応3年(1867年)将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、そして倒幕派を中心とした新政府が王政復古を発令し、翌年に鳥羽伏見の戦いが勃発した。その時新撰組は伏見にいたが、近藤は前年暗殺した元新撰組参謀の伊東甲子太郎一派の残党に馬上で肩を狙撃され、大阪で療養していたため鳥羽伏見の戦いには出陣していなかった。この戦いで敗れた幕府軍は敗走し、新撰組も会津藩とともに海路にて江戸へ帰還したのである。

 その後、新政府軍は江戸へ進軍するのである。近藤は傷の癒えない体のまま迎撃するため、にわか仕立ての部隊を作り、甲府城へ向かったのである。その時、近藤は名を改め大久保剛(のちに大久保大和)と名乗っていた。そして部隊も新撰組とは名乗らず「甲陽鎮撫隊」と称していたのである。ところが新政府軍は甲州街道に支隊を派遣して甲陽鎮撫隊より先に甲府城を接収していたのである。
 甲州勝沼で両軍は激突するのだが、戦いは2時間程で終結してしまうのである。一方的な戦闘で、どちらが勝ったかは言うまでもない。近藤らは江戸へ敗走し、そして五兵衛新田(現在の東京都足立区)を拠点に、新撰組を復活させるべく隊士を募集するのである。そして入隊希望者が200人を超え、さらに戦闘訓練のため千葉の流山に陣を移転するのであった。


流山の本陣  

 新政府軍は不穏な部隊が流山で布陣中との情報を得て、この流山へ押し寄せ陣を包囲したのである。野外訓練のため多くの隊士は不在で、陣には近藤と土方とわずかの隊士しかおらず、近藤は「もはやこれまで!」と切腹を覚悟したのである。しかし一緒にいた土方は「切腹では犬死同然、ここは出頭して、自分は流山の鎮撫のために出張してきた旗本の大久保大和である事を主張するのが得策ではないか」と説得するのであった。土方は近藤が出頭している間に旧幕府を預かる勝海舟らに働きかけ、正体がばれる前に近藤を救出しようと考えたのである。
 出頭を決意した近藤は新政府軍の陣営に送られたのだが、その新政府軍の中に近藤に出会ったことのある人物がいて、大久保大和の正体を疑ったのである。そして近藤をよく知る者が板橋にいて、その人物を総督府に呼び寄せ首実験をしたのである。近藤の正体はここで明かされてしまったのである。
牢に投じられた近藤は、後日、板橋刑場に引き出され、群衆が見物する中、斬首されてしまったのである。首は京都に送られ、三条河原に晒されたのである。 

 近藤の墓は複数に渡っている。首がどこにいったのか定かではないが、山形県米沢の高国寺に近藤勇の従兄弟が持ち帰ったとされる説もある。会津には土方が近藤の遺体の一部を持ち込んだとされる墓がある。戒名は「貫天院殿純義誠忠大居士」


会津にある近藤勇の墓(右にあるのは土方歳三の慰霊碑)

 斬首された場所は現在の東京都板橋区で、埼京線の板橋駅前に墓地があり供養塔が立っている。この供養塔は同じ新撰組隊士の永倉新八が建てたもので、その脇には永倉新八自身の墓がある。


板橋駅前にある近藤勇の墓地

 日本橋から最初の宿場が板橋宿場。本郷追分から中山道を通ると平尾一里塚(日本橋から2番目の一里塚)と言われる場所があり、そのあたりが近藤が斬首された場所である。板橋刑場と言っているようだが、板橋に刑場というのは無い。実際処刑された場所は「馬捨て場」といわれ、馬の死骸や死にそうな馬を捨てた場所で、近藤は動物同然の扱いで殺されたのである。
 埼京線板橋駅前の墓地から歩いてわずかのところに中山道があり、その中山道の巣鴨寄りの路地を入ったところに小さな「馬頭観音」がある。このあたりが近藤が処刑された場所なのだろう。


板橋の近藤墓地の近くにある馬頭観音

記者:関根

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