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ザ・戊辰研マガジン

vol.3

翻弄された飛び領地の人々(白河編)

2018年01月04日 12:39 by norippe
2018年01月04日 12:39 by norippe

 今回は、福島県白河市の東部にあった越後高田藩の飛び領地「釜子陣屋」のお話です。
 白河の市街地を東の石川町方面に車を走らせると(旧)東村と言われる集落があります。その(旧)東村の刈敷坂交差点を右折して棚倉町方面に向かう途中に釜子陣屋はありました。現在はこの陣屋があった場所には写真のような説明板があるのみとなっています。何の案内もないので、いきなり行っても見つけられないかも知れませんが、長傳寺と坂本屋菓子店の間に車が一台やっと通れるような路地があり、それを道なりに行ったクランクの先に少し開けた場所があり、そこに釜子陣屋跡はあります。


釜子陣屋跡の地図

 (旧)東村近郊の南西には表郷村、東南には八溝山があります。いずれも金にまつわる地域なのですが、司馬遼太郎が会津白河の「街道を行く」の取材でまず立ち寄ったのがこの八溝山で、金の産出地として名高い場所でした。また南西にある表郷村には金の名のつく地名の金山という場所があり、集落の真ん中を黄金川という川が流れています。この地域が黄金の国と言われる所以がここにあります。
 話は逸れましたが、もともと釜子陣屋がこの東村釜子地区にあったわけではなく、更に東の浅川町というところに広大な領地の奥州浅川領(12万石)があり、そこに浅川陣屋というのががありました。この奥州浅川領の本藩は越後高田藩の飛び領地でした。しかし奥州高田藩は財政貧困を窮めたことや、百姓一揆が勃発したことがきっかけで、村替えを実施することとなり、多くの領地を幕府領とし、一部の地域3万石を高田藩領としてその一部の釜子に陣屋を移したのです。


釜子陣屋跡の説明板

 戊辰戦争時、本藩の越後高田藩は西軍に帰順していましたが、遥か離れたこの飛び領地の釜子陣屋にはその意向がうまく伝わっていなかったのです。
そして本藩の指示を仰ぐ間もなく東軍として参戦することを決断したのであります。
釜子陣屋の南にある棚倉藩の棚倉城が落城したため、藩士はこれではここの陣屋も守りきれないと判断し、陣屋の米倉を開き近隣の農民に米を分け与え、そして領民を領地最北端の中宿村(現須賀川市)へ退避させ、さらに郡山を経て猪苗代にある亀ヶ城(若松城の支城)へ避難させたのであります。

 陣屋は西軍の攻撃にあう前に奉行自ら火を放ち、建物一切を焼き払ったのです。そして釜子隊も須賀川から諏訪峠を経て亀ヶ城に辿り着きました。
釜子隊の八木隊長を含む総勢36名の藩士は、大鳥圭介率いる伝習隊と共に、母成峠さらに会津若松城下の激戦に参戦したのです。
この戦いでの釜子隊の戦死者は17名で、釜子陣屋跡の近くにある長傳寺には釜子隊戦死者の供養塔と顕彰碑が建っています。顕彰碑には会津陸軍少将の山川浩が、義を貫き会津と共に戦った釜子隊士を称え、号泣しながら撰文されたとされる文字が刻まれています。


越後高田藩忠干碑 と戦死集霊供養塔

 会津藩が降伏後、釜子陣屋総勢は中宿村に集結し、300Kmの遥かなる道のりを、わらじ履きの姿のまま本国の越後高田へ帰還したのであります。
越後高田の本藩は、この戊辰戦争での釜子陣屋諸士の行動を迷惑極まりないと痛烈に批判しました。しかし本藩の意向が届くこともなく、切迫した状況の中、釜子陣屋の人々は自分達の判断で義を貫こうとして行動をとったのです。
目の前の出来事に真向に立ち向かい、主義主張を持って義を貫いた釜子藩士の勇気ある行動は批判出来るものではないのです。

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