ザ・戊辰研マガジン

vol.3

【連載】『次郎長と鉄舟から愛された男』 第3回

2018年01月04日 12:41 by norippe

[家族を探しに旅に出る天田五郎]

 磐城平藩は二万石減封ながらも存続は許され、藩士たちは生活の再建に向けて活動をはじめた。平に帰藩し謹慎を命ぜられた天田五郎も翌年謹慎を解かれ暮らすのだが、生活は大変貧しかった。平八幡小路にあった磐城平藩校・佑賢堂に入校するも、なかなか風習に馴染めなかった事もあり、あてはないが上京することを決断したのである。戦地から無事帰って来た兄の善三に相談をし、そして兄が当面の暮らしの為のお金を工面してくれたのである。
 五郎は同郷人の世話で神田駿河台のニコライ神学校へ身を寄せたのである。しかし五郎にとってこのニコライ神学校は好む場所ではなかった。そもそも五郎の性格は頑固なところがあり、ギリシャ正教の教えに対して激しく反論したりするのでまわりの人々は手を余した。「そんなに言うならここを出て行ったらどうだ!」と言うと、五郎はお金が無いのでどこにも行けないと正直に答えるのであった。五郎の一途さと何も隠さない率直さが、これからの五郎の人生に大きく関わってくるのである。


ニコライ神学校

 結局このニコライ神学校も長続きはせず、明治5年に世話人を介して明治新政府正院大書記の職にあった小池詳敬の食客となったのである。このとき明治新政府はキリスト教禁止を基本方針としていた。新政府はキリスト教宣教師らのもとに密偵を潜入させてその動静を探らせていた。その密偵の上に立っていたのが小池詳敬だった。その後政府がキリスト教を容認したため小池詳敬が密偵活動を辞任したのである。
 五郎と小池詳敬が知り合ったのは密偵活動中で、小池詳敬は五郎の信念を曲げず何も隠さない率直な性格に惚れて食客にしたのであった。

 五郎は小池に従い東海道から九州までも付いて歩いた。そのかたわら行方不明となっている父母妹を探したのだが見つからなかった。またその頃、国学者の落合直亮に国学を学び、政治家の丸山左楽とも交流、そして山岡鉄舟には禅学を受けたのである。
これらの人物から教えを受けられた事は五郎にとっては大変幸運な事であった。

 天田五郎は、明治5年、山岡と初めて会った時「私は磐城平藩の藩士、磐城の戦いで敗れ父母や妹とも離ればなれになってしまった。父母妹の所在を尋ね歩くのが私の一生の宿願である」と言い放ったのである。
 山岡は顔には出さなかったが、胸中、湧き上がる自責の念を感じざるを得なかった。
磐城の戊辰戦争は遊撃隊の人見勝太郎・伊庭八郎によって始められたと言っても過言ではないと山岡は思っていた。磐城の戊辰戦争が始まる以前に、山岡は箱根路に出向き、彼ら遊撃隊の暴走を止めるべく説得をしたのだが失敗に終わってしまった。それがやがて磐城の戦いへと繋がり、結局は目の前にいる天田五郎の家族探しという、痛ましい苦しみと悲しみを与えてしまっていると思ったのである。


遊撃隊戦場の箱根(写真は箱根関所)

 山岡は明治13年、師の滴水和尚から印可を受けるが、既にこの頃から師家としての心境に達していて、晩年には「世間は吾が有、衆生は吾が児」、即ち「世の中の出来事は一切自分の責任である、生きとし生けるものは、すべて自分の子供である」という境地に達していた。このように宇宙界のすべての現象が我が身と直結しているという、空恐ろしいまでの心境となったほどであるから、まして自らが関与した箱根・御殿場の説得失敗に連なる五郎に対しては、深く想いを新たにしたのだ。
 そのような境地にある山岡、五郎が語る父母妹探しの話には、深い悔恨を持つとともに、五郎の脳細胞奥底に隠れている潜在的な「ある特別な才能」を一瞬にして見抜き、この時から特別な想いを抱いたのである。


<続く>次回は「九州へ旅立つ天田五郎」

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