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ザ・戊辰研マガジン

vol.3

新選組と鈴木丹下

2018年01月04日 12:38 by tange
2018年01月04日 12:38 by tange

 京都市上京区の東寄り鴨川近くに京都御苑が拡がる。四季折々に移ろう景色を見せている緑豊かな美しい公園である。ここは、旧御所の周囲に密集して在った宮家や公家の屋敷を取り壊した跡地に整備された公園で、明治16年に現在の外郭が完成した。
 文久3年(1863)8月18日、ここが騒擾の渦に巻き込まれる。「八月十八日の政変」と呼ばれ、「七卿落ち」とともに歴史の年表に刻まれている。
 その前年に京都守護職を拝命した会津九代藩主・松平容保が、薩摩藩と盟を結び主導したクーデターだった。朝廷内で過激に攘夷を叫び盛んに偽勅を発していた公卿たちと彼らを背後で操っていた長州藩が、京都から追放された。
 私の高祖父・鈴木丹下は、その日、政変の場となった御所の警備に就いていた。24歳の時だった。上司の命により九門を巡り、立ち去ろうとしない長州藩の様子を斥候し、対峙した自藩や他藩の警備の有り様を探索する。そして、見聞したことを克明に記した「騒擾日記」という手記を残した。これは毎日のことを綴るいわゆる日記ではない。十八日、一日だけが詳しく書かれた文書で、表題は「騒擾の日を記す」という意味であろう。


京都御苑 東山を望む

 丹下は、軍装を調え、明六ツ(午前六時)少し前、辰野隊長のもと起居していた鞍馬口屋敷を発ち、会津藩の本陣となっていた黒谷(金戒光明寺)へ駆けつけた。政変は未明に始まり、すでに藩主・松平容保は参内していた。
 そのため、辰野隊は御所警備の命を受け出陣し、五ツ時(午前八時)頃、蛤御門内に到着し待機していた。そして、紫宸殿正面の南門(建礼門)の警固を命じられ移動する。
その時の様子が「騒擾日記」に綴られている。

『蛤御門から銃隊を先に二列となって出発する。南門への案内を命じられた自分は真っ先に進むが、どれが南門なのかを知らず途方に暮れていた。二町(約220m)ほど進むと立派な御門があり、丁度その時、帯刀した袴姿の者が走って来たので尋ねると、ここが正に南門であるとのこと…』

 東北、会津若松から都に出てきて右往左往する様子が正直に綴られ、私の先祖のことだが、微笑ましく思ってしまうのである。
 後になって南門は、壬生浪士組(新選組)が雨のなか夜を徹して守ることになる。


南門 (建礼門)

 丹下は、九門の内外と巨魁・三条実美の屋敷を探索し、正午過ぎ蛤御門に戻っていた。その時、壬生浪士たちが御門内に入ろうとして警固の会津藩士たちとひと悶着起こすのを目撃した。彼は、浪士たちの様子を「騒擾日記」に詳しく記している。

『京都壬生村に住んでいたので壬生浪人と呼ばれていた者共五十二人が、一様の支度をしてやって来た。浅黄麻の羽織で袖口のところだけ山形に白く抜いている。騎馬提灯には、上へ赤く山形をつけ、誠忠の二文字が打ち抜きに黒く書かれている。大将分の芹沢鴨、近藤勇と申す者は、小具足に烏帽子を冠り鉄扇を手にして具足櫃に腰掛け、さもいかめしく控えている…』
 
 現在、映像や舞台に登場する彼らの扮装は、全て、丹下の残したこの記述が元になっている。過去に大河ドラマ「新選組」を制作したNHKも、それを認めている。さらに―

『何れも諸国より集まりし者達で、その中の近藤勇という者は、智勇を兼備し、どういう交渉事でも淀みなく返答するとのこと。芹沢鴨という者は、あくまでも勇気強く、梟暴の者とのことで、配下の者が自分の気に入らぬことをすると、死ぬほど殴りつけることもあるそうだ…』

 組織をまとめる立場の芹沢鴨と近藤勇の人となりも詳述されている。この壬生浪士組が、政変後、会津藩から新選組の名を授かり、近藤勇のもと団結し強固な組織となる。それは芹沢鴨が粛清された後で、丹下の記述からもその要因が分かるのだ。
 しかし丹下には、自分が偶然目撃した事実を記した文書が、幕末という歴史の舞台に組織としての新選組を初めて登場させることになるとは、その時、知る由もなかった。

 八・一八政変の時に丹下の属する辰野隊の拠点だった鞍馬口屋敷を探していた。菊池明編「京都守護職日誌」文久三年二月九日の項に、次の記述を見つけた。

『会津藩陣将隊、相国寺裏の彦根藩邸を借り受け、移転する(上京道中泊附)』

 会津藩鞍馬口屋敷とは、この彦根藩邸のことだった。
 それは、京都古地図によると、寺町通が鞍馬口通に交わる角から南西側に拡がった大規模な屋敷だった。南側は相国寺に、西側は上御霊神社にそれぞれ面していた。しかし今、その辺りは民家が立ち並び、彦根藩邸を示す跡は一切見つからない。
 やはり古地図によれば、その屋敷門は、寺町通を挟んで会津若松に縁深い天寧寺の山門と向かい合っていた。
 丹下は、山門を額縁として孤峰のように見えている比叡山に磐梯山を重ね、遠く離れた故郷のことや妻・美和子、娘・光子に思いを馳せていたのかもしれない。古刹の山門からの景色だけが、当時のままに残っている。 (鈴木 晋)


天寧寺、山門から比叡山を望む

(次回は、鈴木丹下の岳父・小野権之丞についてです)

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