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【連載】『次郎長と鉄舟から愛された男』 第1回

2017年11月08日 14:00 by norippe
2017年11月08日 14:00 by norippe

[ 咸臨丸襲撃事件 ]

咸臨丸と言えば江戸幕府が所有する軍艦で、日本で初めて太平洋を横断した船としてよく知られている。
戊辰戦争が勃発した時、咸臨丸は品川沖を脱出したが、太平洋に出たとたんに嵐に遭い、そのまま流され伊豆の下田に漂着し、船体修理のため近くの清水港へ船を寄せたのである。

明治元年9月18日、清水港に停泊していた咸臨丸は大砲を降ろし、多くの乗組員は陸に上がっていて残っているのは10人程度であった。
そんな中、新政府の軍艦が清水港に現れ、咸臨丸めがけて大砲を打ち込んできたのである。
抗戦能力のない咸臨丸の乗組員は盛んに白旗を揚げ、戦意のない事を知らせるのだが、新政府軍はそれを無視して銃を打ち込み、更には乗船して刀を振り回し乗組員を切り殺したのである。
遺体は海に捨てられ、美しい清水の港は一面、真っ赤な血で染まったのである。
中には首のない遺体もあり、無抵抗の人間に対していかに無残な殺し方をしたかが想像出来る。
清水の港にはしばらくの間遺体が浮かんでいたが、一人の男が遺体の回収に動き出したのである。
その男の名は山本長五郎、清水の次郎長親分であった。


異臭漂う回収作業で子分達は悲鳴をあげて拒んだが、それでも次郎長親分は叱咤して、すべての遺体の回収を終えたのである。
遺体は清水向島(現在の築地)に埋葬され墓石も建てられた。
墓石には「壮士墓」と書かれている。この文字を書いたのは山岡鉄舟である。
山岡鉄舟は江戸無血開城において重要な役割を果たした人物である。
勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、駿府にいる西郷のもとへ幕府からの使者となって手紙を渡した男で、多くの官軍が警備する中を、怯まず堂々とした態度で西郷のもとへ歩み寄り、勝海舟からの意向を伝えたという、途轍もなく度胸の据わった男なのである。
そして山岡は剣の達人であり書の達人でもあった。

咸臨丸襲撃事件があった時、山岡鉄舟は駿府にいた。
「朝敵である賊の遺体を葬るのは罪である」という駿河藩の通達に、山岡鉄舟は気を荒くし清水の港に急いで出向いたのである。
会津戦争でも多くの会津兵の遺体が野ざらしのまま何ヶ月も放置され、無残な姿をさらけ出していた事が思い出される。
次郎長と対面した山岡は役目がら「かりそめにも朝廷に対して賊名を負った者の死骸をどういう了簡で始末したのだ」と問いただしたところ、次郎長は怯む様子もなく「賊軍か官軍かは知りませんけれども、それは生きている間のことで、死んでしまえば同じ仏じゃございませんか。仏に敵も味方もござりますまい。港のため仏のためと思ってやった事ですが、もしいけないとおっしゃるなら、どんなおとがめでも受けましょう」
山岡は次郎長のこの言葉に反論が出来なかった。
反論どころか逆に心を動かされ感銘を受けたのである。そして次郎長と山岡という異彩な人間同志の絆が結ばれ、お互いに尊敬しあい二人の長い付き合いが続くのである。
次郎長はとても面倒見がよく、昔に自分がやった喧嘩話や人情話などを人に聞かせ、それを楽しみに聞きに来る衆が多く、それを知っている山岡はいろいろな人間を連れて来ては次郎長に紹介するのであった。
そんな中に山岡が連れてきた一人の若者がいた。
若者の名は天田五郎。磐城平藩の藩士であった。


 <次回に続く> 次回は [ 磐城平藩に戊辰の戦火がやって来た ]

                                                              東北支部 関根

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