ザ・戊辰研マガジン

創刊号

柴五郎と鈴木光子

2017年10月28日 23:43 by tange

 明治4年7月の廃藩置県により旧会津藩の人々が移され発足した斗南藩も斗南県となる。同年9月に近傍の六県が合併し青森県が誕生する。その初代大参事の野田豁通は、着任直後、県下を隈なく視察する。そして、斗南(現むつ市)に暮らす人々の深刻な惨状を目撃し驚愕する。
 彼は直ちに中央政府に救済を求めるが、薩長藩閥政府はこれを完全に無視する。それではと、彼は、斗南の子供たちを自分の屋敷に住まわせ、仕事を与え、夜に学問を教えようと決心する。

  明治4年12月、13歳の柴五郎は他の一人と共に斗南を出て青森に移った。野田の屋敷に住み、県庁に給仕として出仕し、夜に学問を教えられた。
 明治5年4月、私の曾祖母・鈴木光子も、同様に野田の屋敷に小間使いとして住み込み、柴五郎らと一緒に野田の指導のもと勉学に励んでいた。光子の回想記によると、教本として「世界國づくし」 が使われていた。本格的な開国から程ないこの時期に、野田はまことに適切な教材を選んだものだ。ずっと先、国際派の軍人として活躍する柴五郎の意識の中に〝外国〟を最初に植え付けたのは、この青森での授業であったかもしれない。

  明治5年6月、柴五郎は野田の後押しもあって東京へ向かうことになった。旅立ちの日には、ふた月という短い青森での出会いであったが、二歳年下の光子に屋敷の外まで見送られ、はなむけの言葉をかけられている。生涯数え切れないほど大きな出来事にあう柴五郎であったが、その自伝に光子との別れのことをはっきりと記している。彼にとって忘れられない日になったのであろう。併せて前途洋々の自分の将来を思い、彼の気持ちは大いに高揚していた。
 しかしその時の彼には、東京で数々の冷たい仕打ちやどん底の生活が待っていることを、まだ知る由もなかった。明治6年4月の陸軍幼年学校入学まで、東京での惨めな生活は続くのである。

  明治33年4月、柴五郎中佐は北京の公使館に駐在武官として着任する。その直後の6月、義和団の乱が勃発する。
 日本公使館は、英、米、仏、露、独、伊など10カ国の公使館で構成された公使館区域に在った。その区域は、紫禁城地区に隣接し、周囲を高い塀で守られ城のようになっていた。そこを義和団が、後には清国の正規軍が一緒になって攻めてきた。北京籠城の55日が始まった。
 戦いの当初、天津を経由して連合国軍の援軍がすぐ到着するという楽観的な空気が流れていたが、援軍は遅れ、敵は手強かった。

柴五郎中佐は、それまでに欧米諸国をくりかえし訪問し、さらに中国の各地も視察していた。
彼は、欧米人の気質や習慣をしっかりと把握していたし、攻めてくる中国人についても同様であった。さらに複雑に拡がる北京の街の構造も熟知していた。彼は、その的確な用兵や作戦で敵を苦しめ、少数の兵でこの区域を守っていた。彼の沈着で時折の大胆な指揮振りは、その人格の潔さと相まって、籠城戦が長引くなか英国公使のクロード・マクドナルドを初めとする城内の人々から厚い信頼を得ていった。そして、各国の兵に対しても指揮を執るようになった。
 しかし、籠城戦は予想以上に長引いた。もう撃つべき一発の弾丸も、口にする一片の食料も無くなろうとしていた時、援軍が到着した。紙一重の勝利であった。

  早速、各国の公使や軍の代表者が集い、報告会が開かれた。その席上、戦いの総指揮官でもあったクロード・マクドナルドは、「北京籠城の功績の半ばは、特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と述べた。彼は、この直後、本国に帰って日英同盟の構想と実現に奔走することになる。
 柴五郎中佐と日本兵の高い品格を目の当たりにして、日本を信じるに値する国とみなしたのだ。
 この日英同盟が、後の日露戦争における我国の勝利に貢献することになるのである。

  北京籠城戦での柴五郎中佐の沈着で勇気ある行為は、従軍記者によって世界中に伝えられ、各国から大きな称賛を受ける。
 柴五郎は、旧会津藩士の子息であったが故に辛酸をなめた少年時代を過ごすが、会津人に代々受け継がれていた沈着、勇気そして不屈という資質を、全世界に示したのである。青森において野田豁通の薫陶を受けてからその時まで、概ね30年の歳月が流れていた。

  少し時はさかのぼるが、明治24年、大尉となっていた柴五郎は結婚する。そして翌年、長女が生まれる。彼はその子に、初めて恋した人の名をつけた。娘は光子と名付けられた。
 会津藩出身で初めて陸軍大将になった柴五郎は、東京玉川上野毛の屋敷で娘・光子に看取られ、この世を去った。それは、自らもその興隆のために沢山の汗を流してきた近代日本が終わった昭和20年の12月のことだった。享年87。

  私の祖父・鈴木威は、昭和12年、母・光子の喜寿の祝宴を東京目黒の雅叙園で催した。そしてその席に、すでに予備役に編入されていた将軍をお招きした。こうして柴五郎と光子は、あの青森での別れ以来、実に65年ぶりに再会する。
威の末娘の佃壽子が、その時の様子をよく憶えていて、後年語っている。
 「柴さんは、北京義和団の乱のとき、援軍が来るまで五十日余り少数の守備兵を指揮し巧みに戦い、各国の公使館と居住する多くの婦女子を守った軍人として国際的に高い評価を受け、国内でもとても人気の高い軍人さんでした。そんな方の前で余興として琴を弾くように言われていた10歳の私は、祝宴が始まっても胸がどきどきして、ご馳走も喉を通らなかったのです。柴さんは軍服ではなく平服で出席されていました。そのせいか、柴さんと祖母のふたりは、楽しそうに会話をはずませるお友達というふうに見えていました」
 その時の会話は誰にも聞こえていなかった。二人だけの会話だった。


青森県むつ市と釜臥山(かまぶせやま)

柴五郎や鈴木光子が塗炭の苦しみのなか斗南に生きていたときも、この釜臥山を 遠く眺めていたに違いない。

(次回は、会津若松籠城戦の城内で出会う井深梶之助と光子の父・鈴木丹下の物語です)

(鈴木 晋)

 

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