ザ・戊辰研マガジン

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戊辰戦争「磐城・白河の戦い」裏切りの敗戦

2017年11月08日 13:59 by norippe

いつの時代も私利私欲の為に裏切りをする人間がいるものです。
これは私の住んでいる福島県での話です。

いわき市での戊辰戦争ではこんな裏切り行為がありました。
磐城平藩は海岸線の防衛を強化するため、仙台藩に救援を求めて平潟、植田八幡山、二ツ橋などに約 300人の兵を配置したのであります。
しかし、新政府軍の巧みな戦いぶりに東軍は圧倒され、敗北は次第に濃厚なものになりました。
鹿島の走熊(はしりくま)七本松地点でも両軍の攻防戦が起こりました。


現在の鹿島街道と江名・湯本街道が交わる交差点近辺、ショッピングセンター「エブリア」があるあたりです。東軍は新政府軍を迎え撃つために、この七本松地点に砲台を設置していたのです。
しかし新政府軍の奇襲作戦に遭い戦況は非常に不利になったのです。
この奇襲作戦は、新政府軍が前を流れる矢田川の中を、密かに舟で進んで台場の直前に出たことです。
矢田川は今のエブリアの横を流れている川です。(画像)


不意打ちを食らった仙台・平藩の兵は数名の犠牲者を出しました。 この鹿島の走熊の蔵福寺の一角には、仙台藩士五名戦死の碑が建っています。
戦況不利となった仙台兵は江名港へ敗走し、舟で逃亡してしまったのです。
新政府軍の戦いを有利にさせたのは、実は小名浜の侠客として知られた若松誠三郎父子の存在があった のです。
若松鉄五郎・誠三郎の二人は、新政府軍にいわきの地理、地形を教えていたのです。 そして新政府軍は軍次山の要塞を破り、谷川瀬から新川町関門も突破し、そして平城攻防戦へと進むのであります。
平城が落城したあとも、この若松鉄五郎・誠三郎父子は新政府軍の案内役をつとめ、いわきを離れたとされていますが、その後の消息は定かではありません。



それからもうひとつ、白河での戦いでの裏切りがあります。
こちらでは大平八郎という居酒屋の主人が新政府軍の道案内をして、多くの手柄をたてたという裏切り がありました。
白河での戦いは700人もの戦死者を出して会津藩東軍が敗北となったのです。
大勝利をおさめた新政府軍は、大平八郎に対して感謝状を贈り、地元宿場の責任者の地位を与えたのです。
戊辰戦争終結後、会津藩は寒冷不毛の地の下北半島へと追いやられ、斗南藩と藩名を変えたのです。
その中でひとりの若者が奮起しました。その名は会津藩士の田辺軍次であります。田辺は「会津藩が滅亡に至ったのは大平八郎によるものだ」と復讐の念を抱いたのであります。
田辺軍次は斗南から飲まず食わずで乞食同然の姿で白河にやって来ました。
そして「鶴屋」という旅館で大平八郎を刺し殺し、そして自分も自害を遂げたのであります。殺された大平八郎の墓は白河の白坂観音寺にあります。
田辺軍次の墓は白河の戦いの激戦地、会津藩の戦死者が眠る稲荷山会津墓所にあります。


そして白河会津会が建てた「田辺軍次君の墓」と書かれた大きな墓石の隣に、小さな墓石が建っています。これも田辺軍次の墓なのです。
墓がふたつ、一体これはどういう事か?
この小さな墓石は、大平八郎と同じ白坂の観音寺にあったものを、白河会津会が稲荷山会津墓所に墓を建てる際に移設したものなのです。


そしてこの観音寺にあった田沼軍次の墓は、大平八郎の子供が建てたものでした。父親のやった事に対しての謝罪の意味が込められた墓だったのです。

                                                                             東北支部 関根

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