ザ・戊辰研マガジン

創刊号

備前岡山と龍馬       

2017年10月29日 16:40 by minnycat

 岡山

 岡山は西国と京を結ぶ結節点にあり、瀬戸内海の重要港である玉島・下津井・牛窓が等間隔に配置されている。龍馬や慎太郎には縁の深い土地柄である。藩内には龍馬の残した足跡が多数ある。中岡慎太郎の『海西雑記』、そして岡山藩 近藤定常の『近藤定常履歴(池田家文庫)』を参考に、備前山陽道周辺での坂本龍馬・中岡慎太郎の史跡をご紹介しましょう。 中岡慎太郎は慶応元年二月五日に赤間を出発、七日に馬関、十三日に入京して長州藩邸に投じ、二十三日に再び西下するまでの京都滞在中、二月十七日の段階で備前岡山藩の尊王攘夷藩士である津田弘道(彦左衛門)と水戸藩の河邊春次郎と会い、天狗党の乱の事後処理と敗残兵の取り扱いについて、そして長州再侵攻に関する情報交換、備前岡山藩に対する要請等を話し合ったものと思われる。津田は後の慶応四年(一八六八年)に起こった神戸事件の事後処理に奔走した人物である。この時期の岡山藩を含む近隣の雄藩は、徳川幕府主導による国政に対し非常に強い危機感を持っていた。藩主の池田茂政(徳川慶喜の実弟)は孝明天皇から第一次長州征討軍の「芸州路二之手」を命じられるが、藩内では出兵を否とする勢力が多くを占め幕政の終焉近しと受け取られていた。それだけに、備前藩の立ち位置は長州寄りであり、藩代表としての家老達は影にあって交渉の表舞台には姿を見せず、筆頭家老 伊木忠澄の側近 津田が代表役を務めた。龍馬・慎太郎と津田の会談は京都会談の後も場所を岡山藩内の藤井宿に変えて行われている。藤井宿では津田が二人を接待し、龍馬と慎太郎は長州藩側の意向を伝えて岡山藩の転向を促す提案が行われたものと推察される。 『海西雑記』では、「閏五月二十九日夜発舟、六月朔日。同慶応元年六月十四日備前西大寺に宿す。同十五日、藤井宿に逗留す。周旋客 津田彦左衛門、伊木太夫臣 小松源治面会」とある。この会談が功を奏したものか、これら一連の会談では、西郷や木戸の意向も伝えられたはずで、岡山藩の公式の見解は記録に残されてはいないものの、藩の長州寄り姿勢がより鮮明になっていく時期である。近藤定常の記述には、長州再征軍の岡山通過に際し、「藩論を固くし以て幕命に相反対す。依て幕吏大に嫌疑を抱き大将軍が岡山を過ぎて馬を西に征することを躊躇す。是を以て諸藩の兵左右を顧み敢て進まず、長州再征を遂に果たさず」とある。これがために備前藩は極めて巧妙な方策を取った。拡幅整備された山陽道が城下を通り抜ける岡山藩は幕軍主力の通過路に当たるため、これを阻止する必要がある。そこで、敗残兵や不穏分子が領内に入ることを禁止することを理由に新往来(新道)を設営した。山陽道を通り長州に向け進軍する幕軍勢を岡山城下に入らせず、藤井宿以東までに足止めされ、行軍に甚だしい遅滞を生じさせた。新往来 慶応二年(一八六六年)六月の第二次長州戦争開始に至るまでの間、京・大坂から長州に至る街道筋の諸藩への懐柔工作が龍馬・慎太郎により熱心に行われていた。下津井港には慎太郎の資金支援者が廻船問屋を営んでおり、船舶による移動の際には頻繁に下津井に立ち寄っていたと思われる。

藤井宿(岡山市東区藤井)

 藤井宿は馬の乗継ぎ施設のある宿場であることから藤井駅と呼ばれることもある。この藤井は、岡山城下より山陽道を東に約15キロ、本陣と脇本陣が整備され大変賑わった宿場町であった。往時の面影が残る街並みが現存している。世情が逼迫するにつれ、備前岡山藩は城下町手前の藤井宿付近で山陽道を塞ぐことを画策し、藤井宿の外れにある素盞鳴(すさのお)神社の脇道を北上させ岡山城下を大きく迂回する新往来を開設した。この新道(新往来)は平坦な路面ではなく、道幅も狭く、起伏に富んでいて、途中で山越えをし、旭川の上流域まで北上させてから渡河させるなど、作為的な企てが隠されていた。第二次長州征伐の際には、備前領内を通過しようとした幕府軍は事実上、進軍ができずに停止し、苦労し難儀しながら遅れ疲れ果てて長州に辿り着いた兵士たちの間には厭戦気分が蔓延していた。備前藩は既に陰で長州寄りの姿勢を明らかにしていたことになる。近藤定常の記述には、「毛利家これを喜び、(池田)藩公及び(筆頭家老)伊木長門の忠志厚きを知り、、、」とある。 岡山駅前バスターミナル11番より「瀬戸」行または「片上」行に乗車、所要時間約45分、「藤井」下車。バス停より北へ400m。

西大寺

  西大寺に上陸した龍馬と慎太郎は当地で一泊し、翌日には藤井宿へと向かった。 西大寺は観音院の門前町として栄えた港町である。吉井川河口岸に造成された川港であり、備前福岡、長船界隈の備前焼や刀剣類を大坂に搬出する商業港でもあった。 観音院は日本三大奇祭の一つである会陽(えよう)「はだかまつり」の行われることで有名である。重要文化財の鐘楼門を入った客殿には龍馬と慎太郎、それぞれの名刹を付した部屋が残されている。門前町の町並みの中に港町、問屋町が混ざり合ったレトロな風情を漂わせている。五福通り商店街は映画「ALWAYS三丁目の夕日」や数々の映画のロケ地として有名である。 

龍馬の部屋

            

 西大寺

JR「岡山駅」から赤穂線「西大寺駅」にて下車、 所要時間約17分。観音院まで徒歩約10分。または、岡山駅バスターミナル10番より「西大寺バスセンター」行に乗車、終点にて下車、所要時間約45分。徒歩約10分。

下津井港

 製塩業で名を馳せた児島は、瀬戸内海に大きく張り出し海域を狭めている半島である。この児島の先端が鋭く内海中央まで飛び出した位置に下津井港がある。三方が海なので港への出入りは楽で操船がやさしい。港を出れば広々とした海域が待ち受けているから追い風を受ければすぐに疾走を始められ、向かい風でも自在に操って進めやすい。北前船の船頭達は『下津井港は 這入りよて 出よて まともまきよて まぎりよて』と歌い、良港ぶりを褒め称えた。岡山を代表する下津井節である。 ここ児島は古事記や万葉集の国土創生を伝える国産み(くにうみ)の項目に登場する伝説の地である。かつては独立した島であったが、吉備の穴海の干拓によって江戸末期には本州と陸続きになっていた。大和朝廷の直轄地である児島屯倉(みやけ)の置かれた塩の大生産地である。対岸の四国坂出に近く、金毘羅参りや四国八十八カ所参拝者たちの集う港であった。ここを起点に東西南北の航路が交差している。現在の瀬戸大橋の架橋位置に重なる場所である。児島南岸の広大な砂浜では大規模な入浜式塩田が営まれ、西端には良質の水の湧く井戸があり、沖を通る船は立ち寄って飲料水を補給し、塩を積み込んでいた。ここは下津井、良質な水の湧く井戸が埠頭近傍にある稀にみる良港である。港の背後には急峻な崖の迫る地形のため、山側から湧き出す水が豊富で海側からの塩分の混入の少ない恵まれた環境があつた。船乗りにとって水は上陸時の楽しみ。その場で冷たい甘水を競い合いながら飲み干す血気盛んな幕末の志士達の集う姿が目に浮かぶようである。 慶応元年(1865年)の中岡慎太郎の日記「海西雑記」には、「二月一〇日 途中で津和に逗留し鞆に至って宿泊 十一日 下津井にて水塩を購入し、再び出帆」とある。池田家文書「近藤定常履歴」には、慎太郎の支援者であった廻船問屋がここ下津井にあり、龍馬や慎太郎も立ち寄ったという記録が残されている。 下津井の名産のたこは、みなが楽しみにした食べ物。潮の流れが速く身は締まり歯ごたえが良く美味である。龍馬や慎太郎も大好物だったに違いありませんね。             

 下津井の町並み 下津井地区「下津井共同井戸群」: 住人の生活用水の供給源として共同管理され、また船舶への給水や酒造りにも使用された。 「むかし下津井回船問屋」: 当時の建物を復元した歴史資料館。定休日は、火曜日(祝日の場合翌日)、及び年末年始(12/29~1/3)、入場無料。 「祇園神社」: 下津井の氏神、祇園さんと呼ばれ親しまれた。海上安全・厄除 けの神を祭っている。境内からは港が一望のもとに見渡せる。 児島地区 「旧野崎家住宅」: 製塩業で財を成した野崎武左衛門の邸宅。見事な建屋群は国の重要文化財に指定されている。      「ジーンズストリート」: 児島はジーンズ発祥の地。野崎家住宅から南へ広がるジーンズ・雑貨品の専門街。 JR岡山駅から瀬戸大橋線 児島駅で下車、所要時間(快速)22分(普通)36分。 または、JR倉敷駅からバス利用、JR児島駅前まで所要時間約50分。 下津井へは、児島駅より循環バス「とこはい下津井号」を利用。所要時間は約15分。 

天領倉敷

 慶応二年(一八六二)四月、第二奇兵隊による倉敷代官所襲撃事件が起きている。 地元には安政三年(一六五七)から薬種業を営み倉敷村の健康と福祉に尽力してきた林家がある。この林家の第八代当主に「備中の義人大坂屋源介」と呼ばれた林孚一がいる。林家の出所は高知にあり、「土佐屋」と呼ばれていた。林甫三が、祖父 林孚一翁に聞く、孚一が申すには「我が林家の祖先は紀州より出て土佐に渡り、後ち倉敷に移りたるなりと。我宗家は土佐屋にして、後ち分かれて紀伊国屋と称し後に大阪屋と改む。世々薬種商を以て業となす」とした覚書が残されている。孚一は、吉田松陰の師である森田節斎が倉敷に塾を開設したことを契機に勤王思想家となり、勤王の志士たちとの交流が始まった。元冶元年(1864年)三月の天狗党の乱、七月の禁門の変、同月に開始された第一次長州戦争の折りには、長州や水戸の東上西下する敗残兵を自宅に匿ったとされる。また、倉敷村を通る志士を宿泊させ路銀を与えるなどの志を施した。彼の篤志を慕って訪ねてくる者が絶えなかった。交友範囲も広がり適塾の緒方洪庵も訪問するほどの存在であった。林家の出身が高知であることから、龍馬や慎太郎も孚一の評判は聞き及んでいたと思われ、史料で確認されてはいないが、倉敷村に足を運んだことは充分に考えられる。 倉敷美観地区 阿智神社内 林孚一の碑    倉敷美観地区の町並み 倉敷美観地区: 江戸時代中後期の町並みが保存されている。大原美術館、民芸館、考古館、旧倉敷紡績工場跡のアイビースクエアなどの文化施設が多数点在している。 倉敷駅前観光案内所: JR倉敷駅前の西ビル2F。4月~9月の受付時間9時~19時。10月~3月は9時~18時、休館12月29日~31日、電話086-424-1220 倉敷館観光案内所: 受付時間10時~16時、電話086-422-0542 JR東京駅から岡山駅まで新幹線のぞみで 約3時間20分。岡山駅から倉敷駅まで山陽線または伯備線で約17分。倉敷駅南口から美観地区までは徒歩10分。

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