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ザ・戊辰研マガジン

2022年09月号 vol.59

miki の幕末・明治史跡めぐり帳  「神風連の乱、その1」

2022年08月23日 17:10 by minnycat
2022年08月23日 17:10 by minnycat

神風連の乱 

  今回は、 『 神風連の乱 』 を取り上げたいと思います。 この 『 神風連の乱 』 みなさんはどのくらいご存じでしょうか? 高校時代の教科書 ( 旧課程・山川出版社『 日本史 』 )を 見てみると、 P251 「 第9章 近代国家の成立 」 さらに 「 新政府への反乱 」 の中で 『 ・・・ さらに1876 ( 明治9 ) 年に廃刀令がだされ、ついで金禄公債と引きかえに秩禄の強制奉還が命じられると、復古的攘夷主義をかがげる熊本の敬神党 ( 神風連 ) が反乱をおこし、熊本鎮台をおそった』 という とても簡潔な説明のみです。 私も実際、 幕末史を自学するまでは知りませんでした。 今回は、そんな神風連の乱を取り上げていきたいと思います。

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 司馬遼太郎は、 『 歴史と人間 』 の中で、 『私はこれまで肥後をテーマに小説を書いたことがない。それは、肥後という国が大変な「難国」だからである。宮崎八郎・横井小楠・林桜園をはじめとして思想家が群がり出ている。 なぜだろうか。思想家はもともと妄想家で、その妄想をキチンと論理的に組み立てたものが思想だ。思想とは「俺とお前は違う」という差でもある。違うという厳しさと、どこが違うという内容の問題が思想を生む契機となる。だから肥後は一人一党の国柄であり、 ・・・』 と肥後人気質を述べています。 そんな肥後国で神風連の乱が起こったのです。

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『幕末の熊本藩には大きく分けて三つの学派があった。 保守的ば藩校教育の延長線上の学校党、新興の現実主義的な実学党、国学・神道思想を拠にする勤王党である。

 藩の実権は学校党が握っていたが、実学党からは有名な横井小楠が出て、むしろ全国的な名声・業績を上げた。それに比べて勤皇党は微禄藩士・足軽層に遍在して、藩中枢に影響力を及ぼせなかった。  そのため、熊本藩には尊皇攘夷的・革新的傾向が希薄で、西南雄藩に準ずる実力を持ちながら 幕末激動期の主体になり損ねる。

 逆に熊本藩は新政府から保守的反動的大藩と 危険視されて廃藩置県後には相当の圧力をかけられ、旧藩時代逼塞していた実学党が改革を推進していく。

 その意味でも勤王党の鬱屈が蓄積していったわけである。 人斬り、テロというかたちで積極的に政治参加していたともいえる 勤王党活動派の河上彦斎が刑死してのち、勤王党は太田黒伴雄・加屋霽堅らを中心とする、あらゆる仕官の道を拒み、あくまで在野で武士道を鼓舞し、尊王攘夷思想を鼓吹していくことを目的とした思想的結社、さらに指導者太田黒の性格が影響して、宗教秘密結社的な存在になっていく。

 明治6年(一八七三)に赴任した熊本県令安岡良亮は、太田黒一派に維新の混乱で荒れ果てた県下神社の神官のポストを与え懐柔しようとした。

 このときの採用試験に皆元寇の故事を述べたことから「神風連の乱」の異名が付くことになった。その後、神風連の思想はさらに純化され、西欧化が進む世情にますます不満を募らせる。そしてついに「廃刀令」「断髪令」の発布を期に 明治9年(一八七六)十月、挙兵するのである。

 新風連は10月24日の夜の挙兵日時も、神意を問う「※宇気比(うけい)」で決定。隊の編成も神籖(しんせん)を引いて定めた。総勢170余名を3隊に分け、それぞれ要人宅・鎮台砲兵営・歩兵営を襲撃した。

 蘭学の教養のある幹部は、火器の準備を主張したが退けられ、和装甲冑(かっちゅう)姿に刀槍(とうそう)、焼き討ち用具のみで出陣した。要人襲撃は成功し安岡県令・鎮台司令長官種田少将・ 参謀長高島少佐は官舎で殺害され、連隊長与倉少佐は身をもって逃れた。 砲兵営・歩兵営の奇襲にも成功し、混乱する無防備な鎮台兵を刀槍で斬りまくる。

 しかし兵舎に放火したことが裏目に出た。炎に照らし出される異様な姿に襲撃者の正体を見極めた鎮台兵は落ち着きを取り戻して銃をとる。与倉連隊長も合流し、その指揮の下、鎮台兵の組織的な反撃が始まると、神風連はたちまち撃退された。 首領太田黒伴雄も負傷、同士の解釈を受けて自刃した。一夜にして新風連は123人が戦死・自刃。 鎮台・県庁側は死者108人、負傷者210人を出した。          ※ 「宇気比」 ・・・ 神に祈って成否や吉凶を占うこと。  『幕末戊辰西南戦争』  

・・・・・・・以上が、 新風連の乱の大方の流れです。 そんな新風連の乱の資料館が 熊本県熊本市にあります。

  

【熊本県熊本市黒髪5丁目桜山神社境内『 新風連資料館 』2007.3撮影 、隣には、 志士たちの霊が眠る桜山神社があります。

<幕末・明治> そして、 河上彦斎の仮墓というものもありました。

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この神風連の乱のあと秋月、萩の乱そして西南戦争へと 明治初年の士族の反乱は続いていきます。 正直 神風連の乱は 思想が関わっているために 私自身 上手く消化出来ていません。 知識不足です。

 もっと、お勉強をしなくては。 せっかく 神風連の乱をここまで紹介したので 次回は首領となった太田黒伴雄を紹介したいと思います。

<引用文献> ・ 学研 『 幕末戊辰西南戦争 』 ・ 山川出版社 『 詳説 日本史 』

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