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2024年春季号 vol.5

会津史学会 歴史文化講演会「幕末会津藩の国事周旋-会津藩協力者の明治維新-」

2024年04月02日 19:33 by tetsuo-kanome
2024年04月02日 19:33 by tetsuo-kanome

 

 2023年11月12日(日)に福島県会津若松市の福島県立博物館にて会津史学会企画の歴史講演会「幕末会津藩の国事周旋-会津藩協力者の明治維新-」と題して、宮内庁書陵部編修課の主任研究官の白石烈さんが講演されました。開催された後に、私はこの事実を知ってとても悔しかったです。事前に知っていれば、聞きに行きたかった。これまで「白石烈さん」は、会津藩に関する新事実を次々と発見しております。私はこの講演会の資料がどうしても見たかったため、会津史学会にお願いしたところ、快く資料のコピーを送って頂きました。

【白石 烈さん】

 白石烈さんは、福島県いわき市出身の「宮内庁書陵部編修課 主任研究官」です。 宮内庁では、昭和天皇や皇族・皇后の伝記編纂に従事する。専門は会津藩を中心とした幕末維新期政治史。

【会津史学会から頂いた資料】

 資料を拝読すると、まずは注目すべきことは

会津藩は、朝廷と幕府をつなぐ“ろ過装置”として、両者の関係を改善させるため、他藩よりも圧倒的に多い公用方が余分な情報を事前に飲み取っていたこと」です。

また、会津藩への強力な協力者として久留米藩の久德与十郎(キュウトクヨジュウロウ)肥後藩の上田久兵衛がいたことです。これまで歴史上では聞いたこともない二人です。

 特に、久留米藩周旋方の久徳与十郎は重要人物一会桑勢力や新選組とも接点ありました。久徳は、元治元年(一八六四)五月七日に京都に上り、その後、久留米藩の京都留守居役として活躍した。上京後、ほどなく勃発した禁門の変の際には長州軍と果敢に戦い、関白二条斎敬から、感状なども得ている。幕末期の久留米藩は、佐幕派が藩政の中枢を担い、尊皇攘夷派の排除を図っていた。こうしたこともあって、久徳も、会津や桑名藩士らと、交流や親交を深めていくことになっていった。しかし、そんな久徳は、幕府の衰亡とともに、イニシュアティブを取ったかつての藩内急進派から、真っ先に糾弾されることとなる。慶応四年(一八六八)四月、切腹に先がけ、久徳は知行召し上げの上、揚り屋入りの沙汰を受けるが、その罪状は「在京中、会桑などへ深くあい交わり、勤皇の大道取り失い」とされるものだった。これが、かつての同志七人とともに迎えた、切腹という悲劇へと結びつくことになる。実際、京都留守居役としての久徳は、きわめて積極的に活動をしていた。その片鱗をうかがわせる、大変興味深い資料がある。それは、在京中に綴られた久徳のメモだった。「諸藩性名」と題されたそのメモには、実に膨大な数の人名が記されていた。几帳面だったらしい久徳は、藩邸の内外で自身が接触した人名を、それぞれの藩ごとに記録していたのである。冒頭部に、二条家など公卿諸家の用人などの名前を並べたあと、久徳は、次のような順で、諸藩士の名前を綴っている。公卿関係者を含めて、三百名以上に及ぶ人名が並ぶさまは実に壮観である。そして当時大島吉之助を名乗っていた薩摩藩の西郷隆盛や、後年、会津戦争で一族多数を失うこととなる会津藩家老の西郷頼母など、中には一般によく知られる人物の名も散見される。このメモから当時、京都で活躍した諸藩士一人一人の名前を追ってゆくだけでも、興味は尽きない。諸藩の筆頭に明示され、頭抜けて多い藩士名が綴られていたのは、会津藩と桑名藩だった。久徳与十郎が仇敵から突きつけられた罪状の文言は、皮肉にも、この両藩の交流人数の異様な多さが、如実に証明することにもなっている。ところで、この久徳与十郎のメモの中に驚くべき一団の人物名がある。末尾近く「西本願寺」と「姫路」の間に記入されていた人々である。そこに、こんな記述があったのである。新撰組 近藤勇、武田観柳斎、伊木八郎、浅野藤太郎、尾関弥四郎、竹内元太郎、田中寅三、塚本善之助。そこに並んでいたのは、まぎれもなく実在する八人の新選組の隊士名だった。そしていずれの隊士も、きわめて個性豊かな顔ぶれだったのである。京都久留米藩邸は、西洞院通り四条上ルの西側に位置していた。新選組の壬生屯所からは、徒歩およそ十分程度でたどり着く距離である。局長の近藤勇以下八人の新選組隊士は、某日、連れだってこの藩邸を訪れたのだろう。そして京都留守居役の久徳与十郎に面談したものと思われる。「諸藩性名」には、御所内で顔を合わせた旨が付記された藩士なども記されているが、近藤勇らは、直接藩邸内で、久徳に会ったのだろう。新選組の訪問期日を特定する鍵となるのは、四番目に記された浅野藤太郎である。浅野は、新選組がその名を高めた元治元年六月五日の池田屋事件にも参加した隊士だが、事件からほどなくして、その名を「浅野藤太郎」から「浅野薫」へと改めている。そして、この「浅野薫」の名が初めて同時代史料に登場するのは、同年九月二十三日のこととなる(『北沢正誠日記』)。したがって、新選組隊士たちの久留米藩邸訪問は、元治元年九月二十三日以前のこととみなければならないだろう。さらに近藤勇は、それに先がける九月六日に、隊士募集などの目的で、江戸へ帰還の途に発っている。近藤の帰京は十月二十七日のことだった。元治元年八月某日。近藤以下八人の隊士が久留米藩邸を訪れたのは、折しもその頃のことだったと断定してもいいだろう。明治二年一月二十五日、このかけがえのない史料を後世に残した、もと久留米藩京都留守居役・久徳与十郎は切腹した。享年は五十歳ほどだったと伝えられる。

 そして、皆さん、「白石烈さん」のこれからの動向もぜひ注目して頂きたいと思います。宮内庁に眠っている資料を紐どいて会津藩の新事実を発見されるかもしれません。故星良一先生も生前、白石さんとは何度も対談されており、大変注目されておりました。 

【記者 鹿目 哲生】

 

 

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