バックナンバー(もっと見る)

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…

ザ・戊辰研マガジン

2024年春季号 vol.5

鹿目家のルーツ探し

2024年03月18日 07:43 by tetsuo-kanome
2024年03月18日 07:43 by tetsuo-kanome

【会津芦ノ牧温泉】

【「いちいの小路」】

【いちいの木】

 

【「鹿目伊豫」の看板】

 会津若松市の奥座敷「芦ノ牧温泉」には、「いちいの小路」と呼ばれる約1.2kmの散策遊歩道があります。たどっていくと会津若松市指定天然記念物の「いちいの木」にたどり着きます。「いちいの木」は幹周りが2.7mと巨木で、会津若松市内で最も大きい「いちい」の樹木です。この「いちいの木」の後ろに、『鹿目伊豫』の史跡があります。

【「芦ノ牧温泉案内図」】

 私の父親が生まれ育ったのは、会津若松市大戸町で、会津鉄道の「芦ノ牧温泉駅」の隣駅の「大川ダム公園駅」。大川ダムが完成する前は、「舟子駅」でした。今回、「鹿目伊豫の看板」がある場所と父の実家があった場所とは直線距離で考えるとかなり近いことが判明しました。しかも、父が生前、私に預けた「謎の古文書」にも「鹿目伊豫」らしきことが解読できます。ひょっとしたら、親戚かもしれません。だいぶ以前、会津若松市内の親戚から、芦ノ牧温泉に鹿目家のルーツが記載された看板があると聞いたことがありました。ただし、その親戚は、昔、鹿目家は蒲生氏郷公の家来として近江国から会津に移住したと言い伝えで聞いているとも言っておりました。となると、「鹿目伊豫」の看板の内容と違ってきます。

【亡き父から引き継いだ謎の古文書】

 まさに、謎の古文書は、芦ノ牧温泉の「鹿目伊豫の看板」の内容とほぼ同じです。

 また、亡き父から引き継いだ家系図があり、謎は謎を呼ぶシロモノです。

 この家系図を私の長女に見せたところ、大変興味を持ってスマホ片手に調べてくれました。そうこうする中、二枚目の写真にある「田原藤太」は別名「藤原秀郷」で、平将門の乱で平将門を成敗しました。大手町で有名な「将門の首塚」に、鹿目家の家系の人が関係していたとはびっくり。

 この「古文書」と「鹿目家の家系図」を父から私に引き継いだ際は、私がまだ若くて血気盛んな頃で、全く先祖や家系図に興味がありませんでした。当時、父も私に対して期待していなかったせいか、詳しいことは一切説明してくれませんでした。もちろん、当時は私も会津藩や戊辰戦争にも全く興味がありませんでした。そんな私を変えてくれた恩人が星亮一先生の書籍の数々でした。一冊一冊と読むたびに私の会津の血が騒ぎ、会津への興味が沸いていきました。

 亡き父の葬儀で親戚が多数参列する中、父の妹が私の家族に会津若松の実家の思い出話をたくさんしてくれました。今では、この叔母様が生き証人です。鹿目家は士族で、実家には立派な刀がたくさん保管されていたそうです。私の祖父は、当時教師をしており、教師の自宅にたくさんの刀を隠し持っているわけにいかず、山奥へ刀をまとめて処分したそうです。また、叔母が幼い頃から、鹿目家では新年を迎えると必ず「若水迎え」の儀式を厳格に行っていたそうです。大雪の中でも、古来より日本の風習として家族で神事として実施していたそうです。「刀」の件と、「若水迎え」の件は、どちらも初めて聞く話で、まさか父の葬儀で聞けるとは驚くばかりでした。

【若水迎えのイメージ】

 私が幼い頃、父の実家に遊びに行くのは夏休みが多く、川も綺麗だったため、川遊びをしたことは鮮明に覚えております。蝉、カブト虫、クワガタは取り放題でしたので、楽しかった記憶しかありません。「若水迎え」は、正月ですので、会津の山奥にあった父の実家は、冬は雪深く、我々家族が遊びに行った記憶が薄く、写真も残っておりません。しかし、これらの白装束の写真を見ると、幼心になんとなく記憶があります。鹿目家の直系として一度くらい経験していたのかもしれません。そんな思い出話ができる父も母も亡くなり事実は闇の中です。

 また、数十年前ですが、父が元気な頃、父が知っている記憶による家系図を手書きで作成し、私に渡しておりました。数年前、私はNHKの「ファミリーヒストリー」を見て感化されて、私は父のこの手書きの家系図を元に、曾祖父より昔の戸籍が遡れるところまで遡って頂こうと会津若松市役所で戸籍調査を依頼しました。戸籍で遡れたのは高祖父の三代前の「鹿目久左エ門」まで判明しました。その長男が文政五年1822年生まれの「鹿目藤吾」。その長男が「鹿目廣久」。その長男が「鹿目市利」で、この人が私からみた高祖父。市利さんは、よく耳にしました。私はエクセルで鹿目家の家系図を作成しました。しかし、残念ながら「謎の家系図」とはつながらなかったので謎のままです。

【私が作成した鹿目家の家系図】

 私と妻と長女、長男の四人家族で、数年前に鶴ヶ城を訪問しました。その際に、長女が「戊辰戦争殉難者名簿」の中から同じ「鹿目」の姓が三人掲載されていることを見つけました。長女はこの三人は親戚なのと聞いてきましたが、私はなんとも答えることができませんでした。

【資料「1868年の会津藩」に掲載されていた戊辰戦争殉難者名簿の鹿目性の三人】

 「鳥羽伏見の戦い」で伏見で亡くなった「鹿目鹿之助さん(43歳)」。栃木県今市で亡くなった「鹿目吉次郎さん(25歳)」。鶴ヶ城城内で亡くなった鹿目金庫さん(30歳)。

 私は、2022年12月、初めて金戒光明寺を訪問し、西雲院の「会津藩墓地」を訪れて、「鳥羽伏見の戦い慰霊碑」に刻まれておりました「鹿目鹿之助さん」を見つけ持参した赤べこのストラップを手向けてお参りして参りました。

【会津藩墓地 鳥羽伏見の戦い慰霊碑】

【鳥羽伏見の戦い慰霊碑の鹿目鹿之助さん】

 「鹿目鹿之助さん」は、私にとりまして、ひょっとしたら遠い親戚からしれません。この慰霊碑ではなにか目に見えない感じるものがありました。

 会津若松市在住の親戚や、叔母など、父の実家や鹿目家に詳しい方々に、鹿目家の親戚が戊辰戦争に参戦したのかと尋ねてみても、聞いたことがないとの答えでした。鹿目家が会津に在住する武士として、不思議でなりません。

 「鹿目家のルーツ探し」は、まだ始まったばかりで、父の実家には大量の刀があったことは真実であり、父が鹿目家は士族だったと口癖のように私に言ってました。私が元気のうちに自分の目で自分の足で「鹿目家のルーツ」を解明していきたいと心に決めました。

【記者 鹿目 哲生】

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…