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ザ・戊辰研マガジン

2024年春季号 vol.5

爺爺のつれづれ日誌、草莽の隊士『原田亀太郎』

2024年02月27日 15:08 by tama1
2024年02月27日 15:08 by tama1

6/29(土)長屋門さきがけ塾 「子孫が語る秘話シリ-ズ」第三回目 草莽の隊士原田亀太郎 ~天子の御為と存じ死に走り候~ 講師 原田 元昭 氏

 ここのところ、長屋門が開催する天誅組講座はいつも満席で皆勤賞をいただきたい(笑) ぐらいの私から見ても、定時前ぐらいの出席では、もう座るところが無い状態で、この日 も満席の50を越える立錐の人達でした。 そればかりか、受講する人達を見回しても、老若男女・・・これまでとは少し変わった 雰囲気で、150年記念だからとばかりはいえない、何かしら天誅組に新たな風が吹いて いるような予感がいたしました。 龍馬伝、八重の桜と続く幕末歴史ブ-ムが確実に訪れているのでしょうか? 「天誅組」も歴史番組に取り上げられるのもそう遠くはないと感じられました。

 さて、講座のほうは、A4、6ペ-ジに纏められた資料に基づき、下記の要項でお話 されました。

①原田.亀太郎生誕の地、「備中松山」と呼ばれていた(現在の高梁市)日本三大山城の 一つ【備中松山城】の紹介や煙草商原田市十郎長男として生まれた亀太郎の時代の 松山城下の様子(学問が盛んで物品の生産督励、特に煙草の“松山きざみ”が有名)

②.『法栄山道源寺』にある「原田亀太郎墳」や天誅組の決起から壊滅までのあらまし が刻まれた「顕頌碑」

③.幕末の激動~出奔~決起そして挫折~亀太郎の一番華々しい戦場となった白銀山 の戦い~本隊との決別(河内勢離脱)~小俣川村の和歌山藩に出頭~京都刑場まで ④その後の松山に於ける原田亀太郎への厳しい評価

⑤.復権、明治24年従5位叙勲靖国神社に合祀

⑥.同志社大学創始者「新島 襄」と亀太郎、森田節斎、原田市十郎の関係 などなど、大変解りやすく興味深く、聴かせていただきました。

 私は、この末裔シリ-ズの講座に参加して思うのは、先生方(高齢)の表情の穏やかさと 、謙虚な優しい語り口調にいつも感動しています。 爺爺のつれづれ日誌 ご覧のように熱心な聴講生でいっぱいです。 爺爺のつれづれ日誌 最後列まで満席の状況です。 爺爺のつれづれ日誌 奈良テレビからも取材に来られていました。

 爺爺のつれづれ日誌 正面の左側の軸は市十郎が新島襄に見せた獄中からの長男亀太郎から父宛の手紙。

「去年中山侍従殿天子ノ御タメニ大和ニテ義兵ヲ上ゲラレ候説、私モオ招キニアズカリ候 故味方ニ相成リ候処、敗軍ニ及ビ私ハジメ大勢生ケ捕リニ相成リ候。京獄中ニテ、二月 以来追イ追イ死刑ニ相成リ候エバ、私近々同様ト存ジ候。誠ニ子トシテ父母ノ莫大ノ御恩 報イズ、マタ私文学修行ニツキ、コノ上モナキゴ心配ヲ相掛ケ、一日モゴ安心ヲイタシ奉 ラズ、マタ憂キ目ヲ合ワセ奉リ、重々ノ不孝ニ候。シカシコノ度ノ事ハ、天子ノ御為ト存 ジ、死ニ走リ候故、不孝ノ罪ハ御免ジ下サルベク候。弟並ビニ妹ドモニ、親ニ孝ヲ尽クシ 、兄妹睦マジク致スベクト仰セ付ケラレ候様願イ奉リ候亀太郎御父上様京獄ニテ認ム」

 講座資料より そして、右側の亀太郎肖像画付きの軸についてですが、文は森田節斎が、門人原田亀太 郎のことを偲び讃えるために元治元年九月に書いたもので、字は萩田嘯という人が書い ています。

少しばかり披露してみます。 門人原田亀太郎被刑之後数十日其父市十郎翁持遺偽乃獄中書来日願先生因此書記此像余展偽觀之意氣慨然容貌逼真乃使翁讀其書正席粛聴翁讀日二月某日不肖子亀泣血頓首再拝奉書大人膝下去八月中山侍従公子之擧義兵於大和也龜亦興焉~中略~ 拝森田益日大和之擧余未知合義興否姑書之為遺像記似待天下後世定論焉元治紀元甲子秋九月 森田印 印 萩田 嘯 謹書 印(F女史より資料いただく) 更に本日の講師原田元昭先生の系図もF女史より、メ-ルにていただきました。 それによると、原田先生は市十郎次男徳治郎→久太郎(長男)→清(長男)→喜代子 (長女)→元昭(長男)。4代目に当たります。長男亀太郎は独身で刑死していますので その後、途絶えています。

 最後に!! 新島襄が妻八重宛に書いた手紙も資料の中に紹介されていました。 亀太郎が刑死後、明治13年、新島襄はキリスト教伝道のため高梁に、老父市十郎を訪ね ている。妻八重にその時のことを手紙に書いている。 現物は同志社大学資料館に保存されている。 「私、山ヨリ帰りガケニ、昔大和ニテ中山殿ニ随ヒ一揆ヲ起コシ、敗軍ニ及ビテ生ケ捕リ トナリシ私ノ旧友原田亀太郎ト申者ノ家ヲ尋候ニ、老父煙草屋、市十郎存命ニアラレ、 私ニ昔話ヲナシ、袖ニ涙ヲ絞りツツ、大和ノ軍ヨリ遂ニ亀太郎ノ京獄ニ入レラレ、獄中 ヨリ父ニアテシ文ナド示シ呉、私ニ逢ヒシハ倅ニ逢ヒシ同様ト申サレ大ニ喜ビ呉候・・」 が書かれています。 遥か岡山備中の原田亀太郎・・・俄かに身近に感じられてきたのは私ばかりではなかろ うとの思いで帰途につきました。原田先生、本日はいいお話しありがとう御座いました。

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