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ザ・戊辰研マガジン

2023年秋季号 第3号

miki の 史跡巡り帳、『伊庭八郎』 と 『沼津藩』 ②

2023年09月19日 16:20 by minnycat
2023年09月19日 16:20 by minnycat

『伊庭八郎』 と 『沼津藩』 ① の続きです。

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『伊庭八郎』といったら みなさんなにをご想像されるでしょうか? やはり、伊庭さんが一部隊長を務めた 『遊撃隊』 ではないでしょうか? 伊庭さんは約300人に達した隊員の中の 第二軍遊撃隊長を務めました。 旗印は、「白地葵御紋染 貫旗一流」だったそうです。 当時、 諸隊あったうちの1つではありますが、 幕軍として最後まで新政府軍に抵抗をした隊ですね。 今回は、この『遊撃隊』についての お話からさせて頂きたいと思います。

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以下、 『 沼津史談 』 から引用・参考させて頂きます。 『遊撃隊は明治維新に際し、上総国請西(じょうさい)藩主林忠崇(ただたか)を 盟主とし、旧幕府の旗本や譜代大名の家臣等が、朝敵の汚名をきせられた徳川家の寃を雪ぐため決起したもので、その出動区域は最初箱根山を中心に、西は三島・沼津から甲州黒駒に及び、東は熱海・小田原に至るもので、のちには房州館山から奥州小名浜に上陸し、南奥羽一体にまでおよぶ広範囲のものであった。』

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次に、 遊撃隊の 「 軍律 」 と 「 掟 」 を見てみましょう。 新選組や海援隊などのそれは有名ですが、 遊撃隊のはどうだったのでしょうか? 『請西藩士で遊撃隊に参加した渡辺勝蔵が 軍中に手記した日記から、主要部分を抜萃してみる。

 慶応四年辰年閏四月渡辺勝蔵自書出陣日記  

「 軍律 」    

 一.社稷恢同心協力五常の道堅く相守、仮にも暴行到間敷事

 一.令無くして猥りに進退すべからず  一.滞陣の節雑談無用、 何事によらず虚言等相咄人気惑乱為致   間敷事

 一.敵の首級猥りに不可揚、全功第一の事   

 一.令を待たずして分取侵掠等致間敷事  一.秘事承心付候儀者早速体長へ可申出候事   

 一.陣中禁酒、喧嘩口論致間敷事     一.隊伍急を救合、私の功を争間敷事   

 一.行軍中隊伍を不可乱事      右之条々相背者於有之は速に誅■致すべきもの也  

   慶応四年辰年閏四月三日     

     総 督    

  「 掟 」  

  一.諸隊長、参軍之者日々会議所に相集まり 軍議可致事 、但し会議所の儀は輜重方宿陣にて 、日々刻限之儀は其度々申達候事  

  一.会議之決断数ヶ条違背致候ものは 誅戮に行うべき事  

  一.各隊病気のもの一々隊長輜重方へ申出候事   

 一.器械は五日目に相改候事   

 一.各隊人名認め明日中差出候事   

 一.護衛隊の儀は素より玉薬並に 会計長持を護衛致候事 なれば外に荷物に不係守衛可致事   

 一.人足差立の節は玉薬不送候はば外荷物送候は 相成候事 一.途中各隊病人等出来候節は各隊より輜重方へ   

   可届出候事   

 一.隊を外れ候儀、事実不得已事儀   有之候はば其隊長へ相断り可申事   

 一.途中発砲相禁候事       但し先鋒にて小銃一発相放ち候節は 非常の事と心得べし  

  一.小銃試之儀は宿陣中、 天野豊三郎、沢録三郎へ相断り可申事   

 一.巡■之儀一番四番半の日、二番三番丁の日、 隔日に可致事       

 慶応四年辰年閏四月一七日   参 軍  右の「軍律」と「掟」によっても明らかのように、遊撃隊は厳格な統制と秩序を維持した正規の軍隊で、当時ありふれた鳥合の衆的存在でなかったことが知られる。

 次に隊内における連絡を密にするため左記のような 「相図」を定めてあったが、出陣に際しての用意周到さがうかがわれる。  

   「相 図」  

   一.行軍一番隊一発の砲声にて全軍目覚め朝飯の事  

  一.二番目の砲声にて全軍隊を揃へ、 三発目の砲声にて全軍繰出来

   一.小休の節螺一声にて揃、二声にて全軍繰出候事 、 但し各隊半丁一丁位   

 一.常の出張場所迄は提灯相用候共、場所着の上は無灯之事  

  一.巡■も其所の提灯借用致すべくの事    一.合戦は惣軍助合に候得共、       大体一体限の心得にて宿陣共油断致間敷事  

  一.小銃胴らんは間に合候間、其余の玉薬は護衛に相任候事    一.月夜合言葉の儀は輜重方より相触可申事    右之通決断之上は各隊注意に至迄可相心得事    

                    慶応四年辰年閏四月一七日   参 軍    

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 次は、 いよいよ遊撃隊の軍事行動について述べたいと思います。 『慶応四年(一八六八)閏四月一七日には 総督林昌之助以下の遊撃隊は 上総から海路相模湾を横断して網代に上陸し熱海に出て、一隊は甲州方面の旧幕軍と連繋しようとし、他の一隊は小田原藩を説得して江戸に入った。官軍の退路を箱根で断ち、東北諸藩とともに挟撃しようとした。

 さらに他の一隊は小田原藩領の駿東郡御厨(御殿場)辺にまで進出し、その他伊豆の韮山に向かった一隊もあった。

  この時、大総督府から遊撃隊の一掃が 岡崎・沼津・小田原などの諸藩に下されたが、田安中納言慶頼の計いで 彼らの暴挙を戒しめる手段がとられた。すなわち大目付山岡鉄太郎と石坂周蔵の 両人が箱根で彼等に説得を行った結果、遊撃隊は一旦甲州黒駒宿付近で様子を見ることになり、謹慎待命の名目でこの地に向かった。

  彼等に対する監視と警備が 当時甲府城代であった沼津藩主水野忠敬の任であったことはいうまでもない。遊撃隊は結局、忠敬の領分のなかで謹慎することになり、月二日に黒駒を出発して五日に沼津へ到着した。

  林昌之助以下二百二十余人の遊撃隊員は 香貫村の霊山寺と、その付近の農家に分宿させられ謹慎を仰付けられた。この香貫村 霊山寺 滞留中の遊撃隊の動静につき、筆者が以前 土地の古老から聞いた話を要約してみると、裏の香貫山頂に物見所を設け、また密かに斥候を放って官軍の情勢を探らせ、表向きは謹慎を装っていたが■かも油断せず、時機到来すれば■起しようとの気構えであったという。

  そのうちに沼津藩主の中にも遊撃隊に呼応するものがあるとの風聞が起り、五月一三日には老臣三浦小平太が 急遽京都に召喚された。

 上総から海路相模湾を横断して網代に上陸し そのあわただしさのうちに一九日には、折柄の豪雨を冒して林昌之助以下の隊士が   脱走するという事件が起こった。

  脱走した林昌之助以下の遊撃隊は   満水の狩野川を渡って三島宿を通り、二十日には箱根関所を襲った。 中井の率いていた小田原藩兵の一部は遊撃隊を迎えうったが、 かえって敗れ和睦した。

 中井は殺されて小田原藩兵と遊撃隊は 協力して戦う約が成立し、小田原城下に入った。三雲為一郎は横浜に逃走して急を告げた。五月二十一日には、遊撃隊が小田原藩士と合体して、沼津へ進撃してくるとの報道が入ったが、沼津藩はこの旨を江戸に知らせたくても、箱根路が遮断されて通れぬので、甲府を経由しするという有様であった。

  こんなことがあって、水野忠敬は二十一日に   甲府城代を罷免され、十九日に甲府を発して六月二日に沼津に帰った。

  その後、遊撃隊は箱根において優勢な官軍と激戦を交え、多大な損害を豪って敗北し、五月二十七日に箱根を引揚げて熱海に出て翌二十八日網代より海路房州箱館港に向かった。』

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またまた 長文お付き合いいただきましてありがとうございました。 ここまで長々と書いておきながらでいまさらですが、 沼津での伊庭さんの目がしらが熱くなる 私がこの回で伝えたかったことを 短くまとめてしまうと、人見勝太郎・伊庭八郎らは請西藩主林忠崇らと遊撃隊を挙兵し 小田原藩や韮山代官所に同盟を求めましたが、状況がころころ変わり、また時遅しで官軍側についていました。

  その後、静岡県御殿場で山岡鉄太郎の説得にあい さらに沼津藩士の説得で沼津市内にある「霊山寺」で 謹慎します。 時は五月五日のことでした。

<幕末・明治> miki の 史跡巡り帳 【 静岡県沼津市 『 霊山寺 本堂 』 2009.3 撮影 】  

 しかし、その十日後 五月一五日、 東京上野で彰義隊が敗れたことを知った遊撃隊はいてもたってもいられずに  一九日に大雨の中、謹慎していた霊山寺から脱走したのでした。 ”あの”彰義隊が一夜にして官軍に敗をきしてしまったことを 知った伊庭さんの気持ちを察すると 胸が締め付けられる思いです。 謹慎なんかしていられない思いから脱走に至る気持ちは 非常によく分ります。

 そして、 最後は函館まで行き 徳川幕府の幕臣として 最後までその儀を通しぬいた伊庭さん。

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遊撃隊および伊庭さんが沼津で謹慎したお寺、 『 霊山寺 』。

<幕末・明治> miki の 史跡巡り帳  

 御住職さんのお話によると本堂は当時のままだそうです。 多分、本堂にお泊りになったのではないかとおっしゃってました。 当時の品が何か残っていないか お聞きしたのですが 残念ながらなにもないとのことです。 もし、 静岡県沼津市に行く機会がありましたら この『霊山寺』にまで足を伸ばされますと 伊庭さんに出会えますよ。

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<参考・引用文献> ・『 沼津史談 』  不覚ながら何号巻かをメモするのを  忘れてきてしまいましたが、そのなかの 『 遊撃隊始末記 』 大野虎雄 氏 の論文を引用・参考にさせていただきました。 ・「沼津明治資料館」の学芸員さん手製の資料

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