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ザ・戊辰研マガジン

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孝明天皇宸翰と会津松平家

2023年03月25日 15:09 by tetsuo-kanome
2023年03月25日 15:09 by tetsuo-kanome

【孝明天皇と松平容保】

 宮内庁書陵部・白石烈氏(福島県いわき市出身)が、「福島史学研究」誌(2022年3月第100号)に掲載しました「孝明天皇宸翰と会津松平家」と題した論文によりますと、孝明天皇から松平容保公に下賜された宸翰は、四件六通であったことを報告しております。

【福島史学研究】

【宸翰一】文久三年(1863年)6月27日に下賜の宸翰

 「今日其方召設候ハ、関東事情検知井ニ大樹処置感咎之両端ニテ」から始まり「中庸之商量可為嘉祥候事、秘々/六月」で終わる。松平容保を江戸に下向させる御沙汰書が下ったが、それは「実勅」ではなく、容保下向は「於朕不好」と天皇の本心ではないと明言した内容のものである。

【宸翰二】文久三年(1863年)10月9日に下賜の御製二首

 文久三年8月18日の政変に尽力した松平容保に下賜された御製で、会津松平家に現存するもの。「たやすからさる世に武士の忠誠のこころをよろこひてよめる」と詞書に続き、「和らくもたけき心も相生のまつの落葉のあらす栄へむ/武士とこころあはしていはほをもつらぬきてまし世々のおもひて」の御製二首が認められている。

【孝明天皇から松平容保が賜った御製】

 “たやすからざる世に  

  武士の忠誠のこころを  

  よろこびてよめる

  和らぐもたけき心も 

  相生のまつの落葉の

  あらず栄えむ

  武士とこころあはして  

  いはほをもつらぬきてまし  

  世々のおもひで”

 松平容保が、孝明天皇にひそかに呼ばれ賜った和歌。当時、現人神とさえ考えられていた天皇から、俗人である武士が、気持ちを読んだ和歌を賜るなど考えられないこと。容保にとって何にも代えがたい宝物となったに違いない。厚手の和紙で、無理に丸めたと思しき無数の縦じわをみることができる。

 

【宸翰三】文久三年(1863年)10月9日に下賜の御製二首への添状

 御製二首に添えられた宸翰で、容保の政変実現への尽力を褒賞して御製二首を下賜した経緯を説明したもの。これも会津松平家所蔵として現存する。

「堂上以下疎暴論、不正之所置増長ニ付、痛心離堪下内命之処、速ニ領承憂患掃攘、朕存念貫徹之段、全其方忠誠深感悦之余、右壱箱遣之者也」

 

【宸翰四】元治元年(1864年)2月8日に下賜の宸翰

 「極密々書状遣候、抑昨年来滞京、万々誠忠深感悦之至ニ候」から始まり、「松平肥後守へ/極密々禁他聞」で終わる長文の宸翰である。「不容易時節柄」に天皇が「従来深苦心」していることがあり、それを「別紙」に記載したので「深推察」して「一周旋」してほしいと依頼する内容である。容保と「密話」や「密々面会」が難しいため「筆談」におよんだと、この宸翰下賜の理由も記載してある。

【宸翰五】「宸翰四」の「別紙」に該当する宸翰

 内容は、「天下之形勢不容易、多事痛心不過之候」から始まり、「呉々追テ之通書開見之上之心得方兼テ頼置候也/文久四甲子春二月」で終わる。容保を「国家之枢機ヲ任スルニ足ル人」と評価したうえで、「極密ニ依頼」した内容は明かされないまま、先に「領掌之可否」を「答書」でもらいたいとする内容である。

【宸翰六】元治元年2月16日に下賜の宸翰

 「又候極密書状遣候、過日拙書送候所、返事逐一令熱覧深悦入候」から始まり、「右書状ハ元来厳重ノ取扱ニモ無之候ヘハ、左承知頼置候也」で終わる。京都守護職から軍事総裁職に転役した容保の守護職復職を依頼する内容である。

 以上、松平容保宛の孝明天皇宸翰は、全部で四件六通と判断できる。重要なのは、会津松平家が明治初期からこれら孝明天皇宸翰の情報を明治太政官や宮内省に報告していることである。

【明治天皇】

 これまで、孝明天皇から賜った御宸翰は、松平容保公が亡くなるまで肌身離さず大事に保管していたとの通説は、全くの事実無根であったことです。現に、松平容保は明治22年7月20日、孝明天皇の【宸翰一】~【宸翰六】の原本または写本を明治天皇に宮内大臣を通じて奉呈しました。明治天皇は、これらの宸翰を目にして、どのように思ったことでしょう。間違いなく、明治天皇の父上の孝明天皇は松平容保を頼りにしており親密な関係であったことを理解されたことでしょう。少なくとも、この時点で、明治天皇は会津藩が賊軍ではなかったと認識されたと思われます。それを証明されたのが、白石氏の研究によると、明治35年に明治天皇から会津松平家に救済金として35,000円(約1億円)を賜りました。明治政府の反対を押し切って明治天皇が内々に決断して実現しました。このような真実があまり、世間的に知られていないことですが、会津藩の名誉挽回につながる素晴らしい真実です。こうした真実をもっともっと皆様に知って頂きたいものです。

【記者 鹿目 哲生】

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