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白虎隊戦闘の地~戸ノ口原の戦い

2022年06月26日 10:02 by tetsuo-kanome
2022年06月26日 10:02 by tetsuo-kanome

【白虎隊~戸ノ口原の戦い】

 白虎隊が出陣したのは1868年8月20日のこと。隊士たちが自刃するわずか3日前のことでした。新政府軍の猛攻は凄まじく、長岡城(新潟県長岡市)、二本松城(福島県二本松市)、福島城(福島県福島市)を次々に攻め落としていきました。また「奥羽越列藩同盟」の中心であったはずの仙台藩が援護を拒否。周りの藩からの援助も失い、窮地に立たされた会津藩は兵を総動員することに。 その時白虎隊士は一刻も早く現地に行きたかったそう。念願叶ってか、戦闘の舞台となる「戸ノ口原(とのくちはら)」に向かっていくことになります。 8月22日(現在の10月8日)、佐川官兵衛が指揮を取り、白虎隊を含む約250名が戸ノ口原、十六橋へと向かいました。その日の昼、白虎隊は日向内記隊長の指揮で松平容保がいる滝沢本陣へ移動。その後白虎隊も戸ノ口原へ進行していくこととなります。 22日の夜10時ごろ、日向内記が他の隊に用があると出かけたまま戻ってこず、隊士たちは緊張感に包まれました。そして23日の朝5時ごろ、戸ノ口まで進行した白虎隊の一部が篠田儀三郎小隊長の号令で近づいてきた新政府軍に一斉射撃を開始。銃身が熱くなり、素手では持つことができなくなるほど発砲し続けたそうです。初めは慌てた様子の新政府軍でしたがのちに武器の性能差で圧倒。白虎隊は死者を出すこととなってしまいます。東の姥山の塹壕で新政府軍と戦い四人の友を失いました。浅湖湿原を撤退してきた十六人は、篠田義三郎の指揮で此処の新四郎濠を塹壕にして再び戦いました。戦い利あらず津田捨蔵と石田和助が戦死しました。敵兵の包囲から逃れ皆は新四郎濠を遡り、穴切り一里塚方面に逃れ山中をさすらい飯盛山目指して落ち延びて行きました。

「新四郎堀の 決戦場」

新四郎堀は、約四百年昔に荒井村の郷頭荒井新四郎義重が築いた疎水。白虎隊教導の篠田儀三郎の指揮で、白虎隊士二十人はこの濠を塹壕にして戦ったが、戦い利あらず川上に撤退し穴切一里塚を経て穴切り坂を越え、飯盛山に向けて山中を彷徨ったと伝えられる。 飯沼貞雄翁は、この想い出を絵師に描かせた。左の地蔵尊は不明だが、荒井村の農家が描かれている。

 白虎隊は大雨の中、菰土山と呼ばれる小高い山に露営しました。この近くの姥山には、白虎隊士6名の墓があります。埋葬された白虎隊士は、池上新太郎、伊藤俊彦、津川喜代美、石田和助、伊東悌次郎、津田捨蔵の6名です。

 残った白虎隊士たちは、新政府軍の攻撃を受け、退却命令が出たため、霧雨の中来た道を逃げていきました。憧れた戦場で友人を亡くし、雨の中必死に逃げていく隊士たちは何を考えていたのでしょうか。その後、新政府軍を振り切り、鶴ヶ城を目指すこととなります。その道中、多くの兵士と遭遇。敵か味方かわからなかったので合言葉を求めると発砲されました。白虎隊士たちは、強清水近くの「戸ノ口堰洞穴」にやっとの思いで辿り着きました。飯盛山まで近道のため、暗く冷たい「戸ノ口堰洞穴」洞門を命からがら通りやっとの思いで飯盛山にたどり着きました。

 

 戦前日の8月22日、白虎隊隊長日向内記(ひなたないき)は食糧を取りに出掛けたまま、戸ノ口原の陣地に戻らなかった、とされております。理由は、隊士の一人で飯盛山で蘇生した飯沼貞吉(後に貞雄と改名)が『会津戊辰戦争』の中で、語った次のような記述があるためだ。「(隊長の日向が)我等(われら)には食糧の準備がないから、敢死隊(会津藩が臨時に作った寄せ集めの隊)に相談して、なんとか都合して貰(もら)ふて来るから、一同此處(ここ)に待ち居るやう」 ところが、白虎隊士に食糧が全くなかったわけではない。飯沼が書き残した『顛末記(てんまつき)』にも「幸いにも十六士中には前夜(22日)の残飯多少腰にするものあり。是(こ)れ能(よ)く各自の腹を癒(いや)するに足らざれども、一時の飢え凌(しの)ぎんとて腰より残飯を取出し、(以下略)」と、食糧をある程度、持参していたことが分かる。日向が隊を離れた本意は、強清水村の肝煎り荒井家に作戦会議の招集があり日向内記、小池繁次郎は鶴ヶ城から馳せ参じて来る佐川官兵衛を待っていたのですが、明け方近くなり官軍の攻撃が始まり日向内記隊長と白虎隊はすれ違いとなってしまいました。戦後、日向内記は斗南への物資輸送に翻弄されますが少年達を置き去りにしたと非難され自殺してしまったそうです。その孫が関東学院大学の創立者の一人です。

【白虎隊隊長 日向内記】

 飯盛山に辿り着いた白虎隊士たちは、飯沼定吉の『顛末記』を引用すると、燃えているのは城下で、城は燃えていないのが見えた。今後どうするのか、白虎隊士たちは話し合った。野村駒四郎(当時17歳)は「敵と戦おう」と提案。井深茂太郎(同16歳)は「蒲生氏郷(安土桃山時代の武将)が築いた名城だから落ちることはない。城に戻って戦おう」と話す。議論は1時間も続いた。この議論を終わせたのは、小隊長の篠田だった。「誤って敵に捕まって屈辱を受けるようなことがあれば、主君や祖先に対して申し訳ない。この場は潔く自刃して、武士の本分を明らかにするべきだ」「篠田儀三郎曰(いわ)く、最早(もはや)暫(しばら)くなる上は策の講ずべきなし、進撃の計、城に入る謀(はかりごと)、元より不可と云(い)うにあらざれども、迚(とて)も十有余士の能く為し得べき所にあらず。誤って敵に擒(とりこ)にせられ、縄目の屈辱を受ける如(ごと)き琴らば、上は君に対して何の面目やある。下は祖先に対し何の申し訳やある如(し)かず。潔く茲(ここ)に自刃し、武士の本分を明にするにありと、議論爰(ここ)に始めて定まり、(中略)慶応四年戊辰八月廿三日巳の刻過ぎなりき、一同列座し西方(南西)鶴ケ城に向え遥拝決別の意を表し、従容(しょうよう)として皆自刃したりき」つまり、城が燃えていると見誤った後世の言い伝えとは全く異なり、鶴ケ城に入ることはできようが、もし敵に捕まると、容保公や先祖に対して申し開きができないという一心で自刃の道を選んだ、とあります。自刃した時刻は、巳の刻過ぎ(午前10時から同11時ごろ)で、八重らのいる鶴ケ城に向かって自刃したようです。飯盛山では、当初16人が自刃し、少し遅れて一人加わり計17人が自刃し、飯沼定吉だけが蘇生した。飯沼家に伝わる『白虎隊自刃の図』は、隊士すべてが黒の洋装で、最初に自刃した16人が描かれている。なお、自刃時の服装の記録を基に、地元の仏師大橋知伸(ちしん)が彫った像は、飯盛山のさざえ堂隣にある宇賀神堂に一体ずつ祀(まつ)られている。 飯沼定吉は、会津藩足軽の印出新蔵の妻「はつ」に夕方四時ごろに助けられ、(地元慶山の渡部佐平の嫁「ムメ」が第一発見者との説もあり)、歩いて医者のいる塩川(現喜多方市)へ向かったと思われます。

【白虎隊士自刃の地】

【飯盛山から臨む會津鶴ヶ城天守】

【白虎隊士の墓】

 飯盛山には白虎隊士の墓とは少し離れた場所に「飯沼定吉」の墓があります。

 改めて、白虎隊士たちの足取りを辿ってみました。以前、私は、戸ノ口原古戦場から自分の目で辿ったことがありましたが、その後「姥山」に白虎隊士6名の墓があることが報道されたり、新たな事実が次々と明らかになり、遺構の看板等も新たに設置されていることを知りしました。もう一度、自分の目で白虎隊士たちが辿った地を巡ってみたいと思いました。

【記者 鹿目 哲生】

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