岩手県宮古市の宮古湾に沿った国道45号線沿いにある藤原観音堂、その道路沿いに幕軍勇士墓碑がある。
戊辰戦争の戦いのひとつ「宮古湾の戦い」、この海戦後、藤原の海岸に旧幕府脱走軍の士官らしき服装をした遺体が漂着した。地元有志らによって手厚く葬られ、七回忌に建てられた墓碑である。
明治2年3月25日、鍬ヶ崎港にいた官軍軍艦甲鉄以下7隻に幕府軍軍艦回天1隻が奇襲攻撃をかけた。両軍の斬り合い、砲撃など約30分間で、回天は艦長以下死傷者50人余り、力尽きて敗走。官艦死傷者も100有余名という激しさであった。これが宮古湾海戦であった。戦いが終わった藤原須賀に旧幕府軍の兵士らしい首無しの遺体が流れ着いた。
地元有志らによって手厚く葬られ、後に七回忌にこの墓を造立供養したのである。
無名戦士の名は回天士官・大塚浪次郎か、もと新選組隊士の野村利三郎ともいわれている。昭和54年に宮古市指定文化財になっている。
幕軍勇士の墓碑
また、閉伊川を挟んだ反対側には、同じく宮古港海戦の激闘で命を落とした新政府軍の戦死者の墓も残されている。
この墓所には、宮古港海戦で戦死した新政府軍兵士4人の戒名が刻まれ、左右に2名ずつ俗名もある。新政府軍は、鍬ヶ崎に出役していた盛岡藩の役人に4人の埋葬を依頼し、沢田の常安寺に遺体が送られ、この地に埋葬された。
昭和57年(1982)の墓碑改修工事で、墓の一部から2体の遺骨と副葬品が確認されている。こちらも宮古市指定文化財である。
官軍勇士の墓碑
読者コメント