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ザ・戊辰研マガジン

2022年07月号 vol.57

近藤勇の無念を胸に「二ツ沼の戦い」に挑んだもと新選組の二人

2022年07月06日 09:18 by norippe
2022年07月06日 09:18 by norippe

 新選組が今でも人気を博しているその中に、ミュージカルやアニメにも出て来る高人気の二人がいる。「野村利三郎(のむらりさぶろう)」と「相馬主計(そうまかずえ)」の二人である。

 美濃国大垣藩を脱藩し新選組に入隊したといわれる「野村利三郎」。
 下総流山で新選組局長近藤勇が新政府軍へ出頭する際、野村利三郎は付き添って共に新政府軍に捕縛された。
 また、常陸国笠間藩の藩士の子として生まれた「相馬主計」。
 水戸の天狗党挙兵に影響を受け、慶応元年に笠間藩を脱藩。第二次長州征伐の際に松山藩の歩兵として参戦し、その後上洛して新選組に入隊している。新選組は鳥羽・伏見の戦いの後に甲陽鎮撫隊と名前を変え、江戸に向かって進軍する新政府軍を迎撃する任にあたるが、このとき相馬は近藤勇の下で局長付組頭を務めていた。その甲陽鎮撫隊は破れ、捕らえられていた近藤勇の助命嘆願のために板橋宿を訪れた。相馬自身もその場で捕縛され、近藤、野村と一緒に処刑されることになった。
 しかし近藤がこの二人の助命嘆願をしたため、野村と相馬は共に釈放されることになった。慶応4年3月25日、近藤は処刑されてしまった。


相馬主計


野村利三郎

 釈放後、二人は謹慎処分で笠間藩預かりとなるが、その後二人は笠間藩から脱走を図り、幕末に徳川の警備を目的として結成された彰義隊と行動をともにするのである。しかし彰義隊は上野戦争で新政府軍に敗退。生き残った隊士たちは陸軍隊を結成して江戸を脱出し、新政府に抵抗するために結成された奥羽越列藩同盟軍に合流したのだ。二人は奥羽越列藩同盟軍とともに常磐口で新政府軍と戦うことになるのである。

 江戸を手中に収めた新政府軍は、会津方面と太平洋岸沿いの二手に分かれて北へと進撃。太平洋岸沿いでは新政府軍の快進撃。磐城泉城、磐城湯長谷城を攻め落とし、奥羽越列藩同盟の拠点となっていた磐城平城では三度の攻防で苦しむも攻め落とした。応援に来ていた中村藩、仙台藩は退却し、それを追ってさらに新政府軍は北上を続けた。

 そしていわき市の隣町、現在の広野町の浅見川まで新政府軍は到達したのである。ここで対岸に陣取っていた同盟軍と再び戦闘となった。これが「広野の戦い」の始まりである。
 この時の新政府軍の主力は広島藩と鳥取藩。同盟軍側は仙台、中村の両藩に加え、彰義隊生き残りの陸軍隊約100名が加わり、その中にはもちろん、もと新選組の相馬と野村の姿もあった。ふたりは陸軍隊に所属しているものの、心の中は新選組にあった。近藤勇の無念を胸に秘め、なんとしてでも新政府軍に一泡吹かせてやろうと、心に期するものがあった。
 浅見川を挟んで新政府軍と同盟軍の戦いが始まった。


高倉城址から見下ろした浅見川と太平洋

 川の南側は高台だ。新政府軍にとっては有利な地形となっている。
 広野宿まで進出してきた新政府軍に対し、同盟軍は二ツ沼、弁天坂付近に大砲を据えて防御を構えた。そして明治元年8月26日早朝、同盟軍は新政府軍に対して総攻撃を開始した。同盟軍は兵を本道と浜手の2隊に分け、相馬の部隊は本道を、野村の部隊は浜手を進んで行ったのである。


二ツ沼と東京電力広野火力発電所の煙突

 新政府軍は民家の畳を楯の代わりにして身を隠し、野村の部隊を待ち受けた。野村たちはそれに気づかず敵中に突入。その時、新政府軍から一発の銃声が鳴り響き、それを合図に新政府軍の一斉射撃が始まったのである。

 銃撃に身を伏せていた野村は、立ち上がって素早く抜刀し、「突撃~!」と声を張り上げ、先陣を切って飛び出していった。勇猛果敢な野村であるが、この突撃は無謀であった。野村の後に続いた隊員たちは次々に銃弾を浴びて倒れていった。
 野村は雄叫びを上げ、畳の後ろにいる新政府軍の兵士に鬼の形相で切りかかっていった。野村は処刑された近藤の無念を晴らす勢いで刀を振り続けた。

 この日の戦いは土地勘のある同盟軍に有利に運んだ。しかし、午後になって到着した援軍が新政府軍に加わり形勢が逆転した。同盟軍は後退を余儀なくされた。そこに追い打ちをかけるように新政府軍の軍艦からの艦砲射撃が始まった。同盟軍は弁天坂の砲台を放棄して北へと逃走していったのである。

 この広野の戦いがあった場所が、現在「二ツ沼古戦場跡」とされている場所で、この戦いで仙台藩は参謀の中村権十郎、そして中村藩は鬼将監として知られた相馬胤眞が戦死をしたのである。


二ツ沼古戦場跡の案内板

 広野の戦いの後、陸軍隊は仙台まで撤退し、そして土方歳三と合流。相馬と野村は榎本武揚率いる軍艦に乗って函館へ向かったのである。


 その後、野村は明治2年3月、宮古湾海戦の際に回天丸に乗船、真っ先に甲鉄艦に斬り込んで行ったが、撤退に間に合わずに甲鉄艦上で戦死。新政府軍により遺体は海に棄てられたという。一方、相馬は但馬で司法関係の役人として勤務したのち免官し、明治8年に東京の自宅で割腹して自ら命を断った。

 時代の波に翻弄されながら、自分の信念に従い戦いの中で精一杯生きた相馬主計と野村利三郎。まっすぐな男の生き様に共感する人も多いのではないだろうか。

 広野町は福島県浜通り地方に位置し、東は太平洋、西には阿武隈山地が連なり、豊かな自然に恵まれた場所である。江戸時代初期に浜街道、相馬路の広野宿が設けられていて、明治22年に、夕筋、折木、上浅見川、下浅見川、上北迫、下北迫の6つの村が合併して広野町が生まれた。
 広野町の海側には東京電力広野火力発電所があり、北部にはパークゴルフ場、サイクリングロードなどを備えた町民の憩いの場「二ツ沼総合公園」、そして公園のすぐ北側にはサッカースタジアムのJヴィレッジがある。


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