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【幕末維新折々の記・三十一】仙台(松島、原ノ町、榴ヶ岡、長町)、福島

2022年07月06日 09:16 by tange
2022年07月06日 09:16 by tange

 明治6年(1873)10月、斗南で塗炭の苦しみのなか生き抜いた私の曾祖母・鈴木光子は、母、妹、伯母とともに懐かしの故郷、会津若松へ帰る。
 田名部を出た一行は、野辺地、五戸、一戸を経て盛岡に着く。盛岡から北上川を船で下り、石巻へ上陸する。石巻から松島を過ぎ、伊達藩の城下町だった仙台を抜け、福島、二本松を通って会津若松を目指すのだ。
 曾祖母の足跡を求めて、仙台と福島を旅した。
 まず、仙台市教育局生涯学習部を、地下鉄・勾当台公園駅近くに訪ねた。その文化財課O氏から貴重な情報を得て、仙台での概ねのルートが解明された。


松島・五大堂

 曾祖母の回想記「光子」に、松島から仙台城下への記述がある。
 『翌早朝、日の出を拝しながら松島を過ぎ、流石は日本三景の一とその風景を称えました。原野町で、昼飯を済ませました。仙台まで四里と申しますが、街続きで多くは仙台の士族屋敷か、門構えで、塀は杉垣、又は板塀であります。躑躅ヶ岡(つつじがおか)という今の連隊の在る所は、普請最中で御座いました』 
 
 JR仙石線・仙台駅から陸前原ノ町駅へ向かった。宮城野区のその辺りが回想記「光子」にある『原野町』だった。光子が記した『仙台の士族屋敷』は、文化財課で見ることができた寛文4年(1664)・仙台城下絵図にも表現されていた。そこは、江戸時代、かなり広い範囲で侍屋敷が連なる町だった。しかし今、その面影は残されていない。
 曾祖母らは、利府街道(現、県道8号仙台松島線)を通り、松島から利府町を経て『原野町』に着いたのではないかと、文化財課のO氏から伝えられた。
 仙石線でふた駅戻り、榴ヶ岡(つつじがおか)駅から榴岡公園に行く。その広い公園全体が、回想記に登場する『躑躅ヶ岡』歩兵第四連隊の所在地だった。   
 『今の連隊の在る所は、普請最中で御座いました』と、光子が綴った連隊の兵舎ひと棟、第11中隊資料館が曳き屋され、公園の一画に原形保存されている。
 その二階建ての木造建築は、寄棟屋根に和瓦を載せているが、柱などの軸組みを外に出さない大壁(おおかべ)形式で、漆喰塗の外壁、縦長の上げ下げ窓、ポーチに立つ円柱など、明治7年(1874)に完成した県内最古の洋風建築である。余分な装飾を排し、壁面と開口部のバランスも良く、全体として比例の美しさが際立つ建造物だ。現在、仙台市指定の有形文化財である。
 光子は、完成前年の秋に傍らを通り、多数の同じような兵舎の普請現場を目撃していたのだ。
 それは今、仙台市歴史民俗資料館として活用されている。私は、非常に優れた近代歴史的建造物が残されたものだと感慨にふけり、さらに先祖への思いを馳せながら、濃い緑のなか立ち尽くしていた。


仙台市歴史民俗資料館

 回想記「光子」に続きが綴られている。
 『仙台の町外れの長町へ宿をとりまして、有名な芭蕉ヶ辻の見物を思い立ち、道のりは何程あるかと、宿の下女に尋ねましたら〝二里程もアンベッチ〟と云って笑って居ります。其言葉の可笑しさと、道の遠いのに呆れ、草臥れた足で二里の道は無理だと諦めました』
 
 曾祖母ら一行が宿をとった長町は、奥州街道の仙台城下から南へ最初の宿場町である。
 地下鉄南北線を使って仙台駅から長町駅へ向かった。長町駅周辺には、複数の超高層ビルが立ち、公共施設も散見され、家具販売イケアの大型店舗が存在感を示している。かなり都市化が進み、仙台の副都心になりつつあるようだ。仙台の町外れと思って泊まった長町の現在の様子を見たら、光子は、びっくりして腰を抜かすかもしれない。これも『芭蕉ヶ辻』という仙台市街地の真ん中から『二里程』という距離によるものだ。実際は二里(8km)ではなく6kmほどで、さらに現在、地下鉄で10分と便利な場所なのだ。
 長町駅から少し北へ歩くと広瀬川にぶつかる。この川を挟んで仙台側と長町側に、それぞれ宿屋があったとO氏が話してくれた。一行がどちら側に宿をとったのか、この広い川をどのようにして渡ったのか、回想記には記されていない。
 日が暮れて川岸に立ち、寂れた町並みを見た13歳の少女は、どのような気持だったのであろうか……。


長町から広瀬川と仙台の市街地を望む

 長町から在来線を使って、福島に向かった。
 福島市の中心市街地は、山(信夫山)と川(阿武隈川)に挟まれ、旧城下町に重なって広がる緑に溢れた美しい街である。福島城の跡に県庁がおかれている。その城郭に添うように、繁華の中、旧奥州街道が走る。仙台から福島の城下に辿り着いた曾祖母ら一行は、その奥州街道を往き、二本松を目指すのだ。


福島城跡から阿武隈川を望む

 回想記「光子」に次のような記述がある。
 『福島には泊らず、昼食だけ摂りました。南部から出て来た世間見ずの田舎者が、都会地を通りますと、色々と美しい立派なものが目に付きます。呉服屋が沢山あり、店構えの派手なこと。又上等な反物、美麗な染模様の衣服など、目を驚かすものばかりです。遂に羽織紐と襷と筋糸織三反を土産に買い求め、福島を後にして二本松へ参りました』
 
 光子の母・美和子は、若松城下本二ノ丁の上士の娘として生まれ育ち、同じ丁内の鈴木家に嫁し、会津戦争まではお金のやり繰りなど全く無縁に過ごしていたに違いない。しかし、光子の回想記に書き残された帰郷の旅は、倹約の毎日だった。『福島には泊らず、昼食だけ摂りました』とあるように、大きな街での宿泊を避けた。仙台でも南へ一つずれた長町に宿を取った。つまり美和子は、物価を強く意識しながら行動している。彼女はこの時、貨幣経済が台頭する「近代」を確かに歩み始めていた。
 仙台では我慢したがここ福島で、『遂に』と思い切って欲しかった反物類を買い求めてしまう女性らしい結末に、私は、ほほえましく思いながらも、込み上げるものを抑えきれなかった。
 
 斗南・田名部を出て23日目、女性ばかり四人の一行は、会津若松に帰り着いた。

 鈴木晋(丹下)

 次号、「京都・将軍塚の大舞台」

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